第百七十九弾「路地奥の灯り」の続きです
### 『路地奥の灯り ― 遼の章 ―』
相沢遼が最初に壊れかけたのは、
入社して三ヶ月目だった。
都内の中堅IT企業。
内定をもらったとき、両親は泣いて喜んだ。
理系出身、手に職。
将来は安泰だと誰もが思っていた。
だが現実は違った。
終電帰りは当たり前。
仕様書は存在せず、納期だけがある。
ミスをすれば会議室で吊し上げ。
上司は人格を削る言葉を平然と投げつけた。
「使えないな」
「お前の代わりはいくらでもいる」
最初は歯を食いしばった。
だが、ある日、
徹夜明けのまま客先で説明を任されたとき、
言葉が出なくなった。
頭が真っ白になり、視界が揺れた。
帰りの電車で、涙が止まらなかった。
それでも辞めなかった。
辞める=逃げる、だと思っていたからだ。
二年目の冬、
遼はトイレの個室で過呼吸になった。
胸が締めつけられ、
指先が痺れ、
死ぬのかと思った。
だが、会社に戻ると上司は言った。
「体調管理も仕事のうちだろ」
その瞬間、何かが切れた。
帰宅後、
パソコンを開き、退職届の書き方を調べた。
退職はあっけなかった。
だが、辞めた翌日から、恐怖が始まった。
朝、目が覚めると動悸がする。
スマホの通知音に怯える。
コンビニのレジで店員と目を合わせるのも怖い。
自分は社会からはみ出したのだ、と思った。
両親はすでに他界していた。頼れる人はいない。
貯金はあったが、
減っていく数字を見るたびに胃が痛んだ。
それでも、遼は一つだけ決めていた。
――もう、あんな場所には戻らない。
最初の一ヶ月は、何もしなかった。
ただ寝て、起きて、
簡単な料理を作り、散歩をする。
心療内科にも通った。医師は言った。
「あなたは弱くない。
壊れるまで我慢しすぎただけです」
その言葉で、初めて少しだけ救われた。
二ヶ月目、遼は自宅の机に座った。
怖かった。
キーボードに触れるだけで、怒鳴り声が蘇る。
それでも、ゆっくりとコードを書いた。
会社ではなく、自分のペースで。
オンライン講座で最新の言語を学び直した。
フリーランス向けの案件サイトを眺めたが、
応募ボタンを押す勇気が出ない日が続いた。
三ヶ月目のある夜。
「小規模・リモート可」の案件に目が止まった。
手は震えていたが、送信を押した。
断られたらどうしよう。
面接で否定されたらどうしよう。
だが、オンライン面談の相手は、
穏やかな声の女性社長だった。
「無理な納期は設定しません。
できる範囲でやってください」
それだけで、涙が出そうになった。
最初の案件は、小さな修正作業だった。
夜中に何度も起き、バグがないか確認した。
納品ボタンを押す瞬間、指が止まった。
評価が返ってくるまでの数時間、吐きそうだった。
だが返事は短かった。
「助かりました。次もお願いします」
遼は、机に突っ伏して泣いた。
否定されなかった。
それだけで、世界が少し違って見えた。
そこから一年。
小さな案件を積み重ね、少しずつ信頼を得た。
収入も安定し、貯金も回復した。
朝、無理に満員電車に乗らなくていい生活。
自分のペースで働ける日々。
ようやく、傷は薄皮を張るように塞がり始めた。
だが、恋愛だけは別だった。
学生時代、
勇気を出して告白した相手に言われた言葉が、
今も胸に残っている。
「そういう対象じゃない」
それ以来、女性と距離を置いた。
傷つくくらいなら、
最初から踏み込まないほうがいい。
だから、公園で真希を見たとき、
胸が締めつけられた。
弱っている人に手を差し伸べることはできる。
でも、自分の欲をぶつけることは
絶対にしないと決めた。
あの会社の上司たちと同じ側には、
なりたくなかった。
真希が家に来てからも、
遼は自分に言い聞かせていた。
彼女は今、立て直している最中だ。
依存で結ばれた関係は、いつか壊れる。
それでも。
朝、台所から聞こえる包丁の音。
「おはよう」と言われる声。
静かな家に、もう一つの呼吸があること。
それが、こんなにも温かいとは思わなかった。
遼は努力を続けた。
仕事だけではない。
ジムに通い始め、体を整えた。
カウンセリングも継続した。
「自分は価値がある」と思えるまで、
何度も言葉を重ねた。
逃げたのではない。
戦う場所を変えただけだ。
そして今、真希が自分の意思で笑う姿を見て、
初めて思った。
守るのではなく、並んで歩きたい、と。
彼の過去は消えない。
だが、その過去があったからこそ、
あの夜、公園で足を止めることができた。
路地奥の古い家には、
今日も二人分の灯りがともっている。