渡嘉敷島おとこひとり旅|渡嘉敷島を歩く その2 | ワークライフバランスで行こう!

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~集団自決跡地の碑~


2015年1月17日(土)。
泊港から渡嘉敷港行きのマリンライナーとかしきで、時折、時化で大きく揺られながらも渡嘉敷島に無事に到着。
そして、今回の旅の最大の目的地である集団自決跡地に向けて歩き出した。

渡嘉敷港旅客待合所を左に見ながら通りに出たら、右折して海岸に沿って歩いて行くと、正面に民宿かりゆしが見えてくる。
国立沖縄青少年交流の家まで2.2kmと案内が出ている。
集団自決跡地はこの施設の敷地内にある。



民宿かりゆしの角を左折すると、ここから登り坂がはじまる。
国立沖縄青少年交流の家は、渡嘉敷島北部の標高約200mに位置する。
道は勾配をかせぐために、つづら折りになっている。



ひとつめのカーブを大きく180度折り返して、少し登って行くと前方に橋が見えてくる。



橋周辺は視界が開け、眼下に渡嘉敷港が見渡せる。
城島(城はグスクと読む)もよく見える。



山側を見ると、山あいに架かる橋が二つ見える。
ずいぶん高いところまで道を作ったんだなあと思った。
国立沖縄青少年交流の家に行くためには、この橋を通っていかねばならないのだが、この時点では、なぜかその橋が道順だとは思わなかった。
それだけ高いところに橋があるので、自分が歩いて行く道とは別の道路と思ったのだ。



橋には名前がついている。
この橋は「平和橋」という。



平和橋を渡り、ぐんぐん登って行く。
ふたつめのつづら折りのカーブにさしかかったあたりで、歩いてきた道を振り返る。
まだそれほど時間は経っていないが、ずいぶん歩いてきた感じだ。



このふたつめのカーブの途中に、白玉之塔への分岐がある。
案内板がたっているのですぐにわかる。



案内板に従って、登ってきた道を外れ、白玉之塔に向かう
空に向かうようにアプローチが伸びている。



階段とスロープを数回繰り返すと開けた場所に出る。
左側に白玉之塔が見える。

白玉之塔は、もともとは、このあとに向かう集団自決跡地にあったのだが、その場所が米軍基地用地として接収されたため、いまの場所に移されたそうだ。
慰霊の合掌をして、白玉之塔をあとにした。



しばらく歩くとふたつめの橋にさしかかる。
ふたつの橋は「希望橋」という。



希望橋から眼下を見おろすと、そこには自分が歩いてきた平和橋があった。
ここではじめて、三つの橋を渡らないと目的地に辿り着けないことを理解する。



平和橋、希望橋と来たら、三つめの橋の名前はなんだろうと考えながらひたすら歩く。
つづら折りのカーブを再度折り返して、三つめの橋まで登ってきた。
三つめの橋は「未来橋」だった。



未来橋の欄干から見おろす。
下から平和橋、希望橋、未来橋。
この島で起こった悲しい出来事を忘れてはいけない、そして、二度と同じ過ちを繰り返してはいけない。
そんな思いが橋の名前に込められているように思う。



未来橋を過ぎて、緩やかに蛇行するように登って行くと、国立沖縄青少年交流の家に到着する。
この道の終点だ。



敷地内に入ると、すぐ右手にマリンブルーとかしきという建物が見える。
事務所に立ち寄って、集団自決跡地に行きたいことを伝えると、丁寧に教えていただいた。
施設内の地図もいただいた。



集団自決跡地は、ここからもう少し登って行く。
施設のまわりをコンクリートの低い塀が囲んでいる。
ハブの侵入を防ぐ目的のようだ。



歩き始めると施設内の案内板があったので、一応、チェックする。
集団自決跡地は敷地内のメインとなる通りを登って行って、右に曲がった先にある。



途中、とかしきサンマリンスタジアムグランデという、立派な野球場がある。
白地にブルーのユニフォームを着て練習している高校野球部(と思われる)がいた。
沖縄水産高校だろうか?



野球場を右手に見おろしながら、カーブを曲がって進んで行くと、前方に白い案内板が見えてくる。



この左奥が、集団自決跡地だ。



集団自決跡地はこの門が出入り口となっている。
敷地内かと思ったが、塀の外側に位置していることになる。



門を開けて中に入る(というか外に出る)。
すぐ目の前に案内板がある。



案内板に従って奥に進むと、集団自決跡地の碑が見えてくる。
碑に向かって、正面からスロープが伸びている。



今から70年前、この地で老若男女315名の命が失われた。
碑を前にして、時間をかけて合掌した。



そして、この碑の裏にまわると、集団自決跡地へと続く。
ハブに注意の看板もあり、注意して歩を進める。



やせた山道を谷へと下る。
周囲には柵が設けられていて、歩ける範囲は限られている。



ここが突き当たりだ。
このあたり一帯で、想像を絶するほど悲惨な集団自決が行われた。



当時の渡嘉敷島の住民が、この地で息絶えるに至った経緯は、ここに記されている。




昭和20年3月下旬。
太平洋戦争末期に、渡嘉敷島北部の山中で起こった、この悲しい出来事の詳細については、さまざまな文献や証言、動画など、Webでも確認することができるので、あえてここでは触れない。

自分にできることは、直接現地を訪ね、自分の足で歩き、目で見て、肌で感じてきたことを、自分の言葉で伝えていくことだ。

戦跡を訪ねるたびに、平和への祈りと誓いが積み上げられていく気がする。