場に立つ怖さ | ステップファミリー×組織開発

ステップファミリー×組織開発

どん底だったシングルマザーの時代から幸せなステップファミリーを築いた軌跡。現在はパーソナルのコーチング(1on1)と組織開発や関係性のシステムコーチとして、あらゆる組織や家族・カップルの応援をしています。

こんにちは。
Co-leadersのSHIHOです。


先日、とあるワークショップで
おそらく史上初
しんどい場に立ちました。

{19CDAB6C-B654-4A33-B0AB-47254D19ADE5}


私はいつも、
コミュニティの内と外という意識があり
私はコミュニティの外側を向いて
キワで立っている
そんな感覚があります。


コミュニティというのは、
ある意味同じ世界観を持つ人たち。
コーチングいいね。人の本音に触れるって忘れられない経験だね。こう関わり合えるのは
人間らしく戻れるね、あったかいね、と。

でも、世界に本当に必要なのは
外側に向いて、まだこの世界に触れたことない人がなんらかの可能性を感じて繋がれる時。その輪がさらに広がる。

でも同時に、この場所は
いつも吹きっさらしの風が吹く。

コーチングやってる人って
ある種、社会不適合者だよね。
あっち系だよね。
必要以上にポジティブで怖いよね。
そのアプローチは諸刃の剣でしょ。
で、結果がみえにくいよね。

こんな声には
常にさらされている。

まぁこれも一部の事実。
私たちの近くに近づいてくださる好奇心の目ではなく、少し遠くから自分の身を守りながら矢を放たれる感覚かな。

そんな中でいつも裸で立ってる感じ。
時には事故が起こるw
出血する


場をファシリテーションする役は
時にタイムマネジメントをしながら
進行をし、全体の意見をまとめながら
場を前に進める人、
中立的な立場で傾かずに。
場が見えて冷静。
そんな平和的な側面があるように思う。
ビジネススキルとしては必須でしょうというくらい。


ただ、場を本質的に動かす
ファシリテーションというのは、
そんな表面的なものじゃない。


生声が出てくるまで、じっくりと
時間をかけて、大切に場の安全性をつくる。
自分が場にどうあるかが場に投影されるから
どれだけありのままに立ち
時には誰よりも先に、いつもの領域の外に
いけるかを試されてもいる


ただ、失敗すると
時に刃を向けられ、吊し上げられる
そんな存在であるということ。


そのくらい、1対1で向き合うより
実は怖いこと。
システムコーチングの学びの中では
それを
Jump in the fire(火に飛び込む)
獅子吼(獅子のように立つ)
魂の勇者
とも言う。


それは無自覚なインパクト。
AとBという対極な価値観が場に現れた時
ファシリテーターがAに傾いて同調したら
とたんにBの方は声を上げにくくなる。

そのまま無自覚に進行したら、
やがてBさんの復讐が起こる。
Bさんが場を飛び出るなど、場全体に
影響が及ぶ。

また別の場面では、
問いに対するモヤモヤが
場全体に起こった時に、そのエネルギーの
矛先はファシリテーターに向けられ、
「これなんのためにやってるんですか?」
「意味あるんですか?」
「ファシリテーターがイマイチでよくわからない」
「そのアプローチは違う」
と場への評価判断をされる。


場の進行をしているだけでは
ぜったいに起こらないことが
更に本質に踏み込むからこそ起こる。


それが
ファシリテーターの腕とも言われる胆力なわけだけど、人間だから失敗もする。


先日は、初めて失敗した。
必死にリカバーを試みたけど
完全には仕切れなかった。


場を終えて、
泣き崩れたい気分だった。

あの涙はなんの涙だったんだろう。
自分への不甲斐なさ…?
受け止めきれなかった器の大きさ?
場に起こった動揺?への動揺?
自分が否定された感覚?
その人の痛みを感じたのに寄り添えなかった感覚?
強い願いと絶望?


しばらくは何も手につかないほど。
もう場に立つのがしばらくはいいと
思うトラウマ経験にもなりそうだった。

きっとその場にいた参加者も
それを感じたと思う。
怖かっただろうし、
居心地が悪かったと思う。


でもそんな時、人は動けなくなるものなんだよね。固まるとは言ったもので、前に立つ人間が請け負うもの。


帰宅して、ある感情を全部ぶちまけて
悪夢にうなされて
それで、ひとまわりして、
ただただ自分と繋がって湧き起こる感覚は
ありのままは生々しいけれど
尊いということ。


そういうことは起こる。

なぜなら、コミュニティの外を向いていて
裸でたってんだから。
そして、それは私の痛みなんじゃなくて、
世の中にある痛み。
世の中が見て見ぬ振りをしようとしてるけど
確かにある痛み。痛みは痛いけれど、それもありのままの姿で嘘のない姿。

それが立ち現れるのは
すごいことで価値あること。

で、私はそういう存在をも抱き込んで
率直さに感謝し、その痛みと共にいる
必要がある。


だから同じことが場で起きたとしても
私はさらに受け止める覚悟で
やっぱり場に立とう。


場に立ち続けないと
そんな痛みの出どころが無くなる。
場に痛みをだしても大丈夫なほどに
一人一人の器も大きく寛容になれるように
まだまだやるべきことがある。


主催の企業様や参加者にも
たくさんご心配をおかけしてしまった様ですが、
何度でも場に立ちます。
更にぶれないレジリエンスを磨きながら
鍛錬の道を、それでもいきます。。。


本当に願う世界は
分断ではなく
違いを超えてその違いを祝福できるくらい
認め合える世界だから。