【ネタバレなし】

 

先週「エスター」を観て、ホラー映画、スリラー映画的なものが観たくなり、何の前情報もなく選んだこの映画。

すごく掘り出し物の映画な気がして、ブログを書かずにはいられなくなった。

2020年、昨年公開の映画なのでネタバレは控えようと思う。是非観て欲しいし。

 

「エスター」の感想で「オーメン」や「エクソシスト」のようなオカルトホラーの流行のあと、「羊たちの沈黙」や「セブン」のようなサイコスリラーが流行した、という話やホラー映画の古典的な演出の話だったり、悪魔や呪いとかオカルト的なものより普通の人間のほうが実は怖い、というようなことを書いたけど、まさにそういうことをひっくるめた上に後味の悪い余韻も残す映画でタイミング的にもびっくりした。

 

「エスター」はエスターという少女の正体が何なのか?が作品の肝であり、それがオチになると予測できる。これはタイトルが「透明人間」なので、透明人間が恐怖の対象であることが観る前から完全に分かる。そして透明人間になるきっかけ、手段は大抵は化学か科学の力によるものなので、オカルトではなくサイエンス、つまりはSFホラーだ。H.G.ウエルズが1897年に発表した「透明人間」はSF小説にカテゴライズされるだろう。透明人間を使ってどういう物語にするか、どういう演出をするか、でジャンルが変わる存在とも言える。ポール・バーホーベン監督の「インビジブル」も観たが、あれはホラーというよりサスペンス、パニックエンタテイメントだった。

(「インビジブル」は、透明人間になる科学者が変態スケベというのがポール・バーホーベン監督作品らしくて面白かった。透明になる方法は確立されていて元に戻る方法が未完という設定が面白く、自分を実験体にした変態科学者が透明から戻ることに失敗して予想以上に透明のままが続き、精神的に疲弊し、元恋人への嫉妬も合わせて狂人と化す、というのが面白い)

これはパッケージを見る限り、ホラーものだと思えたので、どのように怖がらせてくれるのだろう、と期待しながら観た。そうしたら「透明人間」は舞台装置、小道具に過ぎず、サイコホラーだった!

 

冒頭、研究施設も兼ねているような豪邸から主人公の女性が逃げ出すところから始まる。彼氏は"光学"を研究しているらしい。もうこれでこの彼氏が透明人間になることは確定だ。「エスター」でホラー映画の古典的演出というものを再確認したところだったので、「さあ、どのように現れ出すかな?」という視点で観ていた。逃げ出した主人公は視線を感じるかのように、ふと誰も居ないはずの後ろを振り返ったりする。なので、そういう後ろで何かモノが動かないかと目を凝らしていた。たぶん最初の出現シーンはキッチン。ベーコンエッグを焦がしてしまうシーンで包丁が不自然な動きで落ちる。いや落ちる音がしないので、キッチンカウンターの下に"移動"した。その次の現れ方が秀逸で、女性がまた視線を気にして玄関を出たとき、気温が低いから彼女の吐く息が白くなるのだが、彼女の口元からではなく頭の右上に一度だけ、白い息が現れるのだ。これを見つけたときはゾクゾクした。

 

主人公の女性は彼が透明人間になる方法を発見したことを知っているからか、とにかく逃げてきたあとも恐怖心でいっぱいな様子なのだが、尋常じゃない怯え方をしている。そして逃げるのを手伝ってくれた妹にこんなことを言う。

「彼はとにかく私をコントロールした。支配した。着るものも、食べるものも、"考える"ことも支配した。"考える内容まで"コントロールしたのよ。」と。

外出も管理され、マインドコントロールされた軟禁状態。

これは……サイコパスが透明人間になる方法を発見した、ってヤバい組み合わせ。この映画すごいかもしれない、と思った。単なる透明人間ホラーじゃない、サイコパス透明人間ホラーじゃないか、と。

 

日本で実際にあった凄惨な事件を思い出した。とある家庭になんやかんやで一緒に暮らすようになり、その家族を色々な方法で洗脳、管理下においてコントロールし、家族同士で殺し合うようにしていった事件。詳細を知るにつれて知るんじゃなかった、調べるんじゃなかった、と思った事件。この事件のことを知っているかどうかで想像力による恐怖の増幅度や受け取り方が違ってくると思う…

 

この事件の詳細を知らなくても中盤の主人公に対する追い込み方は恐ろしい。この状況でこれをやられたらもう絶対最悪!ってことをしてくる。普通、透明人間とか見えない霊みたいなものの演出って、「もしかして居る?」から「確かに居る!」って確信する出来事が起こり、徐々に追い詰められていくという演出が使われるけど、この状況、シチュエーションでは出てこないと油断してるところで1,2秒で終わることを突然やられる。そのやることが、「うわ、最悪…」って呟いてしまうことの連続。

後半は「どこに居るの?!」という定番的な演出もあるのだが。

 

物語のラストも衝撃的で…。透明人間になる彼氏の弟も出てくるのだが、弟も幼い頃から兄にコントロールされていたということで正常とは思えない薄気味悪さだし、主人公の女性も被害者ではあるものの狂ってしまっていると感じる結末…

 

タイトルが「透明人間(原題 The Invisible Man)」だけど、作品の恐怖は「透明人間」ではない。「透明人間」は舞台装置でしかなく、「人を洗脳し、コントロールする能力を持つ精神異常者」がもたらす恐怖の映画。

 

Wikipediaを見ると作品の評価は高いみたいだけど、年月を経て、いろんな人が観ることで更にジワジワと評価が高まっていく映画じゃないだろうか。

 

 

追記

透明人間になる方法は大抵は薬品だけど、この映画は違いました。

珍しくネタバレを抑えた内容になりました。是非観て欲しいので。

 

 

 

 

【ネタバレを含みます】

 

映画「エスター」を観た。

久しぶりにゾクゾクさせていただきました。

 

ブログのタイトルに付けた「古典的演出による現代的ホラー」というのを解説していきたいと思います。

 

古典的演出というのは、ホラー映画の「来るぞ、来るぞ」、「もしかして?…」とドキドキさせる演出で、例えば最初にエスターが起こす事件、同級生の女の子を公園で突き落とす前のシーン。

同級生の女の子はエスターを探して公園の木で作られた大きめのすべり台を備えたアスレチックジムを進んでいくのですが、階段を上りきるところとかでゆっくりと進ませて、何かが起こりそうなBGMをつけて、「エスターが突然現れるのか?」とドキドキさせる。息をひそめて更に探し、BGMが無音になったところで突然ドアから男の子たちが笑いながら現れる。急に音がするからビクッとする。

これはホラー映画のものすごく古典的演出。

カメラアングルなんかでもドキドキさせる。固定カメラのアングルで母親が冷蔵庫のドアを開ける。冷蔵庫に近いアングルなので画面はドアで覆われて後ろが見えなくなる。開ける前は後ろの廊下に誰も居なかったが、閉めたときに廊下にエスターが立ってるのでは?と思わせる。

このあたりになるとホラー映画をほとんど観たことのない人は何も思わないかもしれない。けれどそこそこホラー映画を観てる人は「あー来るかも」と思ってしまう演出。

こういう古典的演出が序盤にすごく出てくる。けれど8割ぐらい何も起こらない。「来るのか?来るのか?」と思わせて肩透かしを食らう。「なんだよ、来ないのかよ」と苦笑いしながらも単純にドキドキしてしまう。

 

次に現代的ホラーというのは、このエスターという子の正体がひと昔前なら「悪魔か何かに取り憑かれた子供」「復讐のために生まれ変わった子供」とかのようなオカルト的な存在というパターンだった。それが生まれつきのホルモン異常で見た目が老けない33歳の女性という正体。

「13日の金曜日」のジェイソン、「エルム街の悪夢」のフレディ、「オーメン」のダミアンといった殺人鬼、怪人、悪魔などによるホラーブームのあと、「羊たちの沈黙」のようなサイコサスペンス、サイコスリラー、と呼ばれるようなジャンルが流行った。

もの凄くざっくりと言ってしまうと「精神異常者」がもたらす恐怖。

そういう映画や漫画や小説が増えてサイコパスという言葉も一般化した。

現実世界でも理解し難い動機による殺人や事件が増えていった。

そして精神的疾患、障害についての知識が昔よりも広まった。

知識といえるほど理解できているわけではないけれど、うつ病やパニック障害なんかは職場や知人などで患った方を知っているという人は増えたであろう。知人でなくとも著名人のカミングアウトもある。

この映画の中にもそういう現状がよく分かるシーンがある。エスターの異様さに気付いて「境界性人格障害」「反社会性人格障害」などの障害名を母親がネットで検索するシーン。現在の我々はそういう言葉を耳にする程度かもしれないが知っている。昔ならこんなシーンが出てきたら、「この人はそういう分野に詳しい人?」としか思えなかった。それが違和感なく受け入れられる。そういう現状。

(今の若い人は知らないかもしれないけど、昔は精神的な病は何でも「ノイローゼ」という言葉で片付けていたんですよ…)

そういう現代だからこそのホラー映画、という意味で「現代的ホラー」と題してみたわけです。

 

サイコサスペンス、サイコスリラー映画がたくさん作られたことで、そして現実世界で理解しがたい動機による殺人が増えたことによって、怪物や悪魔や呪いのようなオカルトよりも、人間そのもののほうが実は恐いということを知っているからこそのホラー映画。サイコサスペンスと古典的ホラーの融合。

裏を返すとエスターの正体がオカルト的なものでないからこそ、オカルトホラーの古典的演出を繰り返してミスリードを誘ったとも考えられる。

 

観客を惹きつける脚本も見事で、耳が不自由なマックスちゃんの唇を読む能力を利用するエスターに怒りを覚えるし、母親がアルコール依存症であった過去から夫にエスターの異様さを訴えかけても信じてもらえないことにイライラする。これもアルコール依存症の怖さや完全に絶ち切るのが非常に難しいことをテレビなどのドキュメンタリーで取り上げられて昔より知識が広まってるからこそで、夫の対応も理解できるから、もどかしい。

脚本家は心理学を学んでるの?と思うぐらい観てる人の心理をチクチクと攻撃してくる展開。

 

そして殺人に快楽を感じる快楽殺人者ではなく、夫を寝取るための33歳の欲情が動機というのが恐ろしい!!

序盤キッチンでの夫婦のSEXを目撃するエスター。

「うーん、このシーン必要かなー?」って正直思った。ホラー映画にお色気シーンはつきものだったりするけど、人妻だしな…と…

それがエスターが化粧して夫に迫るシーンでなんとなくエスターの目的、正体が分かり始めて「あのシーンはそういうことか!」って寒気がしました…

 

しかし、怪物や悪魔でなく人間が恐い「現代的ホラー」なんて言いましたけど、アルフレッド・ヒッチコックが1960年に「サイコ」で精神異常者がもたらす恐怖を描いてるんですよね…母親との多重人格というビリー・ミリガンで広まった解離性同一障害までも扱って…すごい…

 

 

 

久しぶりにブログを書きます。

ようやく新劇場版ヱヴァンゲリヲンが「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

EVANGELION:3.0+1.0 THRICE UPON A TIME」にて完結したので感想を。

エヴァは沢山のファンや考察者がいる作品なのでニワカな自分が感想を書くのは気が引けるのですが、まあほとんど人の目に触れないブログですので…

 

まず旧劇エヴァはリアルタイムには見ていませんでした。

ちょうど社会人になって間もない頃で見る余裕がなく、仕事が慣れた数年後にまとめて観ました。

その後、新劇場版は毎度映画館に足を運んで鑑賞し、Blu-rayも買ってました。

 

さて、感想ですが、結構淡白なものです…

映像は派手に、世界観はマイナス宇宙などスケールが大きくなったものの、人間ドラマ部分があっさりと淡白になってしまったかなと。

旧劇は「ATフィールド=心の壁」というのが非常に印象的なキーワードになっていました。

物語の終着点である人類補完計画も人の心の壁を消滅させ、LCL化して溶け合い、一体化するというもの。

人は他人と関わることで傷つくこともあるがそれを恐れていては人から愛されることもないし、愛することもできない。この人間の普遍的で誰もが何かしら共感できるものがテーマであったところが興味深かった。

シンジはLCL化して溶け合い「もうこれで誰もあなたを傷つけることはない」と諭されるが「ここは虚無で何もない」と結局は他者を求めてLCLからヒトの形に戻る。けれど人と関わる怖さを克服したわけではないから、隣でヒトの形を取り戻したアスカの首を絞める。

多分、その前にアスカがエヴァ量産機になぶり殺しにされている時に初号機の傍で座り込んで助けようとしなかったことや病室で自慰に及んだこと、それらがあったから真っ先に恐怖が来ての咄嗟の行動。人と関わり傷つくことを克服するのは容易ではない…

(これはあくまで私の解釈です。英語の直訳みたいなものでしょうかね。見たままの解釈。副題の I need you.とかアスカの頬を撫でるしぐさとかでニュアンスを含めた意訳をアレコレ考えるのもエヴァの楽しみ方の一つです。)

 

長くなってしまいましたが、この「心の壁」「他者と関わる恐怖」というテーマが薄れてしまったのは勿体ないな、と。使徒が持つ「ATフィールド=心の壁」という設定は、ガンダムにおける「ニュータイプ」のように繰り返し使える強烈な設定なのに勿体ない、と。ちょっと俗な視点で申し訳ないのですが。

けれど新劇場版を始める時に、庵野監督は「エヴァもガンダムのように他の人がそれぞれのエヴァンゲリオンを作ってくれるようになればいいと思っている」という主旨のことも仰っていたので。

 

で、新劇場版のテーマは何になるんだろうかと考えていたんですが、ラストシーンで気になった描写があり、そこから一つ辿り着いたもの。

 

マリらしき人がシンジらしき人に手を差し伸べて「さあ、行こう!シンジくん」と言う。シンジはマリの手を握り立ち上がり「うん、行こう!」と答える。その際にマリがちょっと驚いた顔をする。

私が思うには、マリが予想していたよりもすぐに迷いなく手を握り、力強く立ち上がったから。

シンジは「あれで良かったのかな?」と尋ねるような独り言のようなことを言い、それを他人から「良かったんだよ」と肯定してもらうことでようやく納得する、消化できる少年だった。

「エヴァに乗れ」「あなたにしか出来ないことよ」と言われるからエヴァに乗る少年。

それが、カヲル、レイ、アスカを補完として導き、エヴァの無い世界を願ったこと、それらを人に肯定してもらわずとも自分自身だけで消化して納得できるように成長した。

 

アスカと「僕があの時、助けることも殺すことも決断しなかったからだ」「少しは成長したようね」というやり取りもありました。

シンジが自分から強く決断したことも一度だけあるのですが、

「僕がどうなったっていい。世界がどうなったっていい。だけど綾波は……せめて綾波だけは、絶対助ける!」

これは「僕がどうなったっていい」は投げやりで「世界がどうなったっていい」はあまりに自分勝手。幼く浅はかな勢いだけの決断。それ故にQで変わり果てた世界に動揺し「僕は綾波を助けたかっただけだ」と言い訳をする。本当に世界がどうなってもいいと覚悟していたならば動揺しないはず。(助けたはずの綾波もいないという何も縋るものがない悲惨な状況でシンジを非難するつもりはないのですが…)

 

今作ではアヤナミレイ(仮称)が突然LCL化してしまったところから彼は変わる。

ヴンダーに乗せて欲しい、初号機に乗せて欲しい、迷いなく自分自身だけで決断していく。

カヲル、レイ、アスカたちを導くときも、それが最善かどうかは分からないものの、シンジが思うことを正直に伝えて導いていく。

(この流れがあまりに淡々と進むので、やや冷たい印象も受けるのですが…)

エヴァのない世界も自分だけで考え、自分が犠牲になることまで決意した。(結局ユイが身代わりとなってくれましたが)

 

ということで、自分だけで決断できる成長、身も蓋もない言い方をすれば、大人になった。

別にシンジが特別意志が弱いというわけではなく中学生なら当然です。けれど社会に出れば仕事にしろプライベートにしろ、それが最善か、正しいか、は兎も角、何事も自分自身で決めていかなければなりません。そしてその責任は自分で負わなければなりません。そういう成長の物語だったのかな、と。

普通は年齢と共に徐々に身につけ固めていくものですが。

 

こんな感じに物語のテーマをつらつらと考えてみたのですが、成長して大人になる、普遍的ではあるものの少々単純で物足りない感が否めません。

(つらつらと考えるまでもなく「人の死と意思を受け取れるようになったとは、大人になったなシンジ」とゲンドウが言っちゃってるんですが)

 

テーマ関係なく、破の後半、旧劇からストーリーを変化させた以降、人間ドラマが描かれる時間、エピソードが少な過ぎたように感じます。

やはり「ATフィールド=心の壁」を盛り込まなかったのは勿体ない…(こればかり言ってる…)

 

それでもラストシーンをはじめ、アレコレと考察、解釈を拡げて楽しむ余地が沢山あり、Blu-rayを買ったりして楽しむつもりです。

 

 

 

5年前に書いた記事です

と管理画面に出ていたのでリブログしてみる

 

北米最大のアニメイベントAnime Expo2019で大友克洋自身からアキラの再アニメ化プロジェクトの話が出たというニュース記事を読んだから。

期待と不安が入り混じる。

あの時代に手書きのセルでフルアニメーションであの色彩というのが今観ても素晴らしいと思うので。

今なら当然CGを用いない訳がない。ショートピースはなかなか良かったけれど。

ただ、昔は良かったと懐古主義になるのもよくない。あの時代にはあの時代の良さがあったように今の時代の良さもあるはずだ。

是非また今の時代の映像表現で衝撃を与えてほしい。


実は後藤邑子さんのことは全く知らない。

もしかするとこれまでに見たアニメで声を聞いたことがあるのかもしれないけど。

なので、涙したわけではないのだけれど、引き込まれる文章、内容で、いいね!を押すだけでは物足りず、初めてリブログという機能を使ってみる。


※ネタバレあり

 

前巻ぐらいから思ってたんだけど、ベティとカルロ、地球に還ったら結婚しそう。

あまりにご都合主義っぽいから結婚まではさせないかもしれないけど。

でもずっと感想に書いてきたようにめちゃくちゃ王道的な漫画だと思うので、ご都合主義で全然構わないと思う。

そもそもサラリーマンが会社辞めて宇宙飛行士になって月のミッションに選ばれてること自体がご都合主義以外のナニモノでもないわけで。

恋愛で結ばれることに対して読者はご都合主義を感じとりやすいのかな?と読みながら考えてました。

自分の経験がそんなうまくいくわけがないと思わせるのか。仕事とか受験とか恋愛以外でも人生うまくいかないことだらけなんだけど。

案外人生の中で相思相愛は簡単に短期間に成就するもんだったりする。その後、別れず、離婚せず、長年にわたり関係を続かせることが難しいだけで。

吊り橋効果ってやつもありますしね。作者も過去エピソードを入れたり読者が納得できるように努めてるのが伺えます。

この巻まで惰性ではなくこの漫画が好みで読み続けてきた読者は、ご都合主義っぽくてもハッピーエンドを期待していることでしょう。

 

あとはムッタらの帰還に関して「他国へ助けを求めるしかない」ってロシアしかないでしょう。

となるとヒビト!兄弟で月面へ立つ!シャロン望遠鏡も完成させて大団円!?

 

 

 【ネタバレあり】ハリウッド 実写版 劇場版 GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊の感想


日本のマンガ、アニメのハリウッド映画化は全く期待できないんですが、これも期待を裏切らない駄作ぶりでした。

ストーリーも全然違うので、当然テーマ的なものも全く異なる。

最後の締めのモノローグだけで全く異なる作品だと観てない人にも分かってもらえると思う。

 

「私の心は人間。体は人工組織。私は第一号だけど、仲間は増える。人は記憶に自分の証を求めるけど、何をするかが人を決める。私の中で生き残ったゴーストが、人間性の大切さを教えてくれた。私は自分が何者で何をすべきかを知っている。」

 

実験体として勝手に全身義体化され、偽の記憶を植え付けられた悲劇のヒロインが自分のルーツと人間性を再確認し、己れの使命として公安9課で闘い続けることを選ぶというある意味分かりやすいヒロイックストーリー。

一般的な正義感や倫理観から逸脱した、超越したところがあり、全身義体化した己れのアイデンティティ、つまり自我を確立する要素に人間の姿は大して意味がないと考え、AIと融合して電脳世界における人間の多様性、可能性の海に飛び込んでいったオリジナルの少佐の面影は微塵もない。

ストーリーを変えても構わないが作品の魅力のポイントを変えてるからダメダメ。

まず少佐を正統派ヒーロー(正しくはヒロインか)にしちゃダメ。正義感から公安9課で任務を遂行しているわけではなく、自分の身体能力、電脳ハックのスキルが活かせるということと警察では手が出せない悪どい政治家や権力者が嫌いという個人的な理由からであり、9課のメンバーとは仕事仲間であって人間関係的な信頼を寄せてはいない。バトーだけ少し特別で他メンバーとのつなぎ役を担っていてチームが保たれている。独断も多く、孤高のダークヒーローというかアウトロー的なところが魅力。信じているのは自分の能力、判断力、直感で「そう囁くのよ。私のゴーストが」という台詞や、冒頭ビルから飛び降りて突入、ひと暴れしたのち、不敵な笑みを浮かべながら光学迷彩で闇夜に消えていくところが格好良かったのに、この映画では芸者ロボットの「ハンカ社と関わると破滅する」という言葉と自分の記憶にバグがあることに感づいて終始不安げな顔(上のキービジュアルのように終始眉間に皺を寄せてる)で身体的には強いんだけど頼もしさがない。

(ちなみに日本語吹替版はアニメの声優が多く起用されているので飛ばし飛ばし観たんだけど少佐の声の違和感が半端じゃない。声優さんも困ったと思うがわざわざ同一キャラに選ばれたらアニメの声を期待されてるんだろうからアニメと同じ声にするしかない。するとあのカッコいい声が終始不安を抱えている映画の少佐とミスマッチを引き起こすのは必然。それでも字幕と吹替の翻訳を比べると吹替版はアニメの雰囲気が出る口調に変えて違和感を減らしてはいる。バトーに対して「どうしてあなたが汗を?」→「ビクついてるの?」という感じで。)


そしてアウトロー的が故に公安9課としては人形使いはネットから遮断した上で捕獲、研究・監視対象とすべきところを独断で、そして己れの好奇心から融合を選択するという電脳世界が行き着く生命体の形態の一つを示した物語の結末が「融合、進化して復讐しよう!」「それは出来ない」になってしまっていてもう。。。「復讐しよう!」じゃオリジナルの少佐なら「くだらないわね」と一蹴するだろうし、この映画の少佐は正義感が強いから拒むわなぁ。。。

「さて、どこへ行こうかしら。ネットは広大だわ…」の台詞で終わるから、融合してどんな変化があったのだろうか、これからどのように生きていくのだろうか、と想像を掻き立てられるゾクゾク感がたまらなかったのに。

 

というわけで、全く異なるシロモノが出来上がったわけですが、ストーリーが全く異なるのにアニメ版の構図そのままのシーンが沢山あって、これはこれですごいなと。(原作漫画とアニメも相当別物ですし、SACシリーズもまた違うコンセプトの作品ですが、それはここでは置いておいて)

全く異なるストーリーなのに、冒頭は光学迷彩を着た少佐が飛び降りるところから始まるし、水場でゴミ収集車のオッチャンと格闘(アニメではごみ収集車のオッチャンを利用してた男)、バトーと船の上で語らうシーンがあって、最後の見せ場は多脚戦車との格闘。でも、見た目だけであって、例えばバトーと船の上で語らうシーンも語らう内容が全く違うという具合で、本当に全然違う物語。それが逆にすごいな、というよくわからない感想をいだきました。

(人形使いの代わりに「2nd GIG」で登場したクゼヒデオを出し、草薙素子とクゼヒデオは幼少期に旅客機事故に遭い義体化したらしいというアニメのシリーズ化に伴い出てきた要素を埋め込むあたり、アニメシリーズ全体へのリスペクトが感じられ、それが構図やガジェットのデザイン等に現れているとは思いました)

 

傑作、良作品も好きだけど、B級映画や駄作も思わず観てしまう人。おすすめです。

 

 

 

 

 

 

 

 【ネタバレあり】

 

原田登場!!

いや、これしかないでしょう。感想は。

赤井弟がサッカーから野球に転向するのは簡単に予想できてたし。

うーん、これは上杉達也や浅倉南、最低でもチラッとは出そうな。。。

もしくは敢えて出さずに原田に過去の話(高校卒業後の二人の話)を語らせるのかもしれない。。。

まぁ、明青学園をわざわざ舞台にしてるからには何かしらはあるのでしょう。。。

気になるのは原田が救急車のサイレンの音に「うおおおっ」って反応してたこと。トラウマのように。和也のことじゃないと思うんですよね。原田は和也にあまり関わってなかったから。達也か南かが救急車で運ばれるような何かがあったように思えてならないんですが。。。

あまり悲劇的な話はやめてくださいね。。。我々世代にとっては、完結している思い出の作品でもあり、その後に興味はあるものの、二人は幸せになっていてほしいので。。。

けれど今更ながら11巻を読み直すと上杉達也の甲子園の試合のビデオのエピソードは何か意味深なんですよね。今は亡き人のような。(何かを思い出したかのように涙する父、ある日元気ない足取りで帰宅して酒を煽る父、そして母の遺影が真っ白になって目覚める投馬。投馬の幼き頃の記憶で構成されたであろう、この夢の部分)そしてこれは深読みすぎるとは思うけど投馬は達也の息子のような気がしなくもなかったり。。。(「何となく投馬に似てると思わないか?母さん。」)

 

これまで、タイトルのMIXの意味の解釈として、

 

・連れ子同士の再婚によって生まれた立花兄弟、妹の関係性をミックスと表現している。

・沢山のキャラクターを序盤から登場させ、それらをミックスしてキャラクター同士の化学反応を楽しむ(作者も)漫画である。

 

というのを挙げていたんだけど、

 

・過去作品「タッチ」の物語と、今回の主人公達の物語をミックスさせた漫画である。

 

という意味を新たに感じました。

 

最初はちょっとしたサービス精神で明青学園を舞台にしているぐらいに思ってましたが、今回、原田の登場もだけど、西村の回想シーンで「タッチ」の昔の原稿をそのまま使っていたりしていたので、これはかなりクロスオーバーさせる気だと感じた次第であります。

 

あ!追加です。

血の繋がらない兄妹からして「みゆき」と「タッチ」のミックスというのもありますね!