【ネタバレあり】

「物語シリーズ」の最新刊「忍物語」(モンスターシーズン第1作目)を読みました。
終物語のアニメが完結するまで「終物語(下巻)」以降を読むのを止めていたので、刊行されてから半年経ってしまいましたが。
 
時系列的には阿良々木暦が大学生になって間もない頃のお話。
阿良々木暦が向こう見ずで熱血漢な高校生から、そういうものを忘れて、失って、つまらない男になりつつあるところが、リアルというか現実的な高校生から大学生における変化のように思えた。
時系列的にこれよりも後の「結物語」でも、正義感からではなく、流され気味に警察官になった、かなり平凡な社会人として描かれていたので、それに繋がる大学時代の阿良々木暦像として妥当だとは思うが、高校卒業からそれほど時間が経っていないにもかかわらず、変わり過ぎとも思えた。
 
この物語の中で阿良々木暦は常に受動的で、臥煙伊豆湖の指示に従って動くだけ。阿良々木暦が語り部となっているので、あれこれ頭の中では何かしら考えていることは語られるが、常に臥煙さんに気付いたこと、思いついたことを相談し、それに対する新たな臥煙さんの指示に従うことの繰り返しで話は進む。暗号の解読を担当しますと名乗りを挙げるが、実際は大学で出来た友人、食飼命日子に全て解いてもらうだけで、使いっ走りもいいところ。自分の母校、直江津高校の女の子が次々と血を吸われて干からびてミイラのようになる事件であるのに、なんとかしなければ!という必死さや切迫感、正義感がほとんどない。臥煙さんからの協力要請に「わかりました。学業に支障が出ない範囲で、手伝わせてもらいます」という姿勢。終盤、連続吸血の犯人が直江津高校の女子高生と分かると、

──高校時代によくやっていたように、僕がひとりで汚名をひっかぶって、どうにかなるようなことではない。あれをやるには、さすがに他人事すぎる。僕は政治家じゃない。知らない人間のためにはそこまでは働けない。会ったことも、袖が擦りあったこともない、縁もゆかりもない女子を助けるってのは、なるほど、簡単じゃあないな──

などと語っている。高校生の阿良々木暦は見ず知らずの八九寺真宵を必死に助けたのに。自分を殺そうとした神原駿河を必死に助けたのに。
それらの中で無我夢中ゆえに過ちもたくさん犯したということもあって、反省し、慎重になったのだろうか。これも成長なのだろうか。後先考えずに、その場の勢いで、感情で、行動した結果、自ら自分のやってきたことを否定する怪異を生み出すに至ったわけだから、慎重な行動は成長だとも思う。けれど、その自分が生み出した怪異までも命を賭して助け、最終的には皆をハッピーエンドに導いたのだから、その性分を貫き続けても良かったのではないかとも思う。成長による慎重さだとしても、上記のような「さすがに他人事すぎる」云々の理由にはちょっと違和感を覚える。終物語での言葉、
 
──己を犠牲にしてまで誰かを救おうと思っていた、自分を大切にしないことが他人を愛することだと信じていた、薄くて弱い陶酔に溢れた、優しい欺瞞の時代は終わりを迎えた。──
 
を理由として欲しかった。母校の後輩、それも神原駿河のバスケットボール部の後輩たちを「他人事」と言ってしまうのは高校時代の阿良々木暦像からかけ離れすぎている。事の発端がキスショットを吸血鬼にした主人スーサイドマスターだから尚更「他人事」ではないだろう。そして、何かに憑かれているように感じた見ず知らずの女の子を卒業式を放り出して追いかける終物語のラストとも繋がらないように思う。強いて挙げるなら直接出会ったか否かの違いがあるのだけれど、会ってもいない千石撫子に呪いをかけた生徒をも助けようとした前例がある。
 
(言葉の選択や並べ方が凝っている西尾維新にしては雑な文章。「汚名をひっかぶって」汚名をかぶるような助け方なんてしてたっけ?「僕は政治家じゃない」政治家はこんな事件に全く関係ない。当てはめるとしたら専門家か警察。「縁もゆかりもない」母校の後輩という縁がある。)
 
で、タイトルにも書いたんだけど、この物語の主役は影縫余弦なんじゃないかと。
話の冒頭から万が一のため臥煙さんは後輩の暴力陰陽師、影縫余弦を北極から呼び戻している、とあるのだが、北極からということもあり、到着しないまま話は進んでいく。しかし、最後のクライマックスで阿良々木暦の行動で物語が終わるのではなく、影縫余弦が突然空から連続吸血の犯人の女子高生に膝蹴りを食らわして終わる。あっけなく。そして後日談の最後の方で語られる短い会話、
「影縫さんは、迷わないんですか?」
「迷わへんよ。大人やから」
この影縫余弦が言う「大人」とは「ポリシーを持った人間」といったニュアンスだろうか。
影縫余弦は「偽物語」で初登場したときからその迷いの無さを見せつけた。自分の信念、ポリシーを元に阿良々木月火という怪異を殺そうとした。しかし、阿良々木暦の珍しく筋が通った
「家族なんだから嘘もつきます。騙します。──」
「偽物であることが悪だと言うなら、その悪は僕が背負います。」
という主張に納得するとすっぱり「例外」とし、きっちりと「さようなら」と別れの言葉を口にして去っていった。(アニメでは足を揃えて綺麗にお辞儀する姿が印象的だった)
 
「迷わない」という意味では高校生の阿良々木暦も迷いがなかった。いつも何の迷いもなく人を助けることに全力だったし、自分を犠牲にすることも厭わなかった。「しのぶメイル」で臥煙さんから羽川と戦場ヶ原が危機だと教えられても迷うことなく神原を走らせ、自分は死屍累生死郎との勝負を優先した。臥煙さんの予想の斜め上をいく無軌道さだった。けれど、心の奥底では後から「あれは正しい行動だったのだろうか?」と疑問を持ち、悩んでいたから忍野扇という怪異を生んだ。子供だからこそ出来る無鉄砲な「迷いの無さ」だったわけだ。ポリシーに基づいた「迷いの無さ」ではなかったから悩んでしまった。だから「大人だから迷わない」と即答できる影縫さんからは底知れないものを感じるし、阿良々木暦には重い言葉だったであろう。
阿良々木暦が不甲斐ない男になっている分、影縫余弦の存在感が際立った物語だった。
そういう対比を見せるために阿良々木暦を不甲斐ない男として描いたのかもしれない。
 
ちなみに、いつも通り随所にコメディ要素を盛り込んでいるものの今回は自分としてはあまり面白く感じられなかったのが残念。
(忍をチャイルドシートに座らせるのを愉しむ嗜好はさすがにどうかと思う。女装ネタも「こよみリバース」の1回で充分。臥煙さんの熟女過剰反応ネタは好き。)
 
追記
西尾維新は推理サスペンスが下手ですね。「おうぎフォーミュラ」でも思ったんですが。あれは鉄条径?でしたっけ?先生を生徒と同列に並べてるのがズルすぎた。
(阿良々木暦があんな奴を先生と思いたくなくて同列に語ったという理由付けはあるし、犯人を明かす前に忍野扇に「阿良々木先輩は一つ事実を隠している」とヒントを言わせてはいるけど、完全に推理モノの体裁の小説であのオチはズルい。あのオチがありだとしても語り方が下手。鉄条径 ソフトボール部 クラスのまとめ役という紹介。名前をチラッと出すだけならまだしも。)
今回は序盤に名前まで出して貼交帰依を登場させた時点でもう真犯人だと分かってしまう。動機も本人の愚痴や神原駿河たちが抱える悩みから推測できる。ミイラの発見順のトリックとか全然意味がない。名前を出さず、バスケ部であることも伏せて、ただ現状への不満を呟かせるだけでよかったのに。そうすれば怪しいと思いつつ真相に近づく面白みがあっただろうに。
後付けで話を膨らませて意外なところへ着地させるのは上手いけど、推理モノとして構えて書くとすごく下手という印象。
(「掟上今日子の備忘録」も特殊な状況、人間関係などによる事件で奇想天外なオチで普通の推理モノとは相当異なる。ただ、それが作品の読みどころだから良いとして)
後付けで膨らませた話ではなくても推理モノの体裁でなければ「まよいマイマイ」の戦場ヶ原ひたぎには真宵が最初から見えていなかった、という意外なオチに感心させられたりしたんだけど。
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アニメ化してしまうんですね。。。

 

「おうぎダーク」の感想でアニメ化しない方がいいんじゃ。。。と書きましたが、シャフト、アニプレックス等制作サイドが「物語シリーズ」全てをアニメ化する意気込みが感じられるので喜ばしいことでしょうか。
アニメ化しない方がいいという個人的な思いは、この作品はあまりにもおふざけが過ぎるような感じなので。 これまでのシリーズの表紙に「120%趣味で書かれた小説です」とか、200%とかありましたが「1000%趣味で書かれた小説」でしょう。もう西尾維新が自身でパロって書いた同人誌みたいな感じです。小説は読まずにアニメだけ見ている方はちょっと面食らうんじゃないかと。
話は卒業式の次の日の話で、この物語がそのまんま終物語の「後日談、というか今回のオチ」といった内容です。
上のキービジュアルに小説の表紙に書かれている通りのショートカットの老倉育がいますけれど、阿良々木暦とこの老倉育の超ベタベタなラブコメチックなやりとりとか、ちょっと引いてしまうぐらい。
でも、セリフ量が半端なく多く、いつも大変な思いをしているであろう声優陣の方々は、もしかしたらこの悪ノリ感を楽しみながらアフレコできるかも?なんて思ったり。(それはコメンタリーでもうお腹いっぱいか。。。)
まぁ、なんだかんだ言って楽しみです。
ツインテイルをピコピコさせながら「女の子ですよ?」とおどける戦場ヶ原ひたぎが特に。
 
事前知識として童話形式で書かれた「うつくし姫」を読んでおくとより楽しめると思います。初出はヒロイン本で「業物語」にも収録されているキスショットが人間だった頃のお話です。
 

まず、物語の内容には触れません。悪しからず。

最近の漫画の背景に違和感を覚えるものが多く、この「いぬやしき」もそうでした。

 

ちなみにジジイが力を持つ点や構図などに、我々おっさん世代の中には、大友克洋の「童夢」を思い浮かべた人も多いのではないでしょうか。

なので、この感想はおっさんの懐古趣味による偏見に満ちたものになります。

 

最近の漫画の背景は、とても写実的なものが多い。写真をトレースしたような。トレースまでしていなくても描きたい構図を写真で撮ってきて、または雑誌や資料本を見て描く。漫画制作のデジタル化も進んでいるので、写真を取り込んで加工という手法もあるでしょう。リアルに写実的に描くことが悪いことではないとは思います。例えば物語の冒頭部にリアルな背景のコマを描いて、話の舞台が何処かを示すというのは効果的でしょう。ただ、キャラクターと背景を重ねた場合、キャラクターの絵柄とミスマッチを起こしていると感じることが多々あるんです。いろいろと作者によって画風があると思うんですが、背景はその画風と完全に切り離されてしまっている。線のタッチが全く違う。これは違和感を感じざるを得ませんし、只々、背景がうるさい、見づらい、と感じるのです。

 

大友克洋の「童夢」を引き合いに出したので、比べてみます。

 

「童夢」

「いぬやしき」

 

「いぬやしき」の背景の方が写実的でリアルなのは確かですが、写実的すぎてキャラクターが浮いて見えます。こういうリアルな背景のヴィジュアルはアニメに任せておけばいいと思うんです。おっさんとしては漫画ならではの表現技法を生み出して欲しいと思うのです。

「童夢」の背景は構図としての面白さも考えられているんです。一見よくわからないんですが、団地の建物を地上にいる我々からすると逆の感覚で描いている。画の上の方が1階で下の方が屋上になっている。宙に浮かんでいる人間からすると、そんな上下の常識的感覚は関係ないということも表している。そんな深読みしなくても単純に、アレッ?これどういう視点?って思わせる構図になっている。

この構図「童夢」のオマージュかなぁって勝手に思ったけど、ならばせめて「いぬやしき」も背景を上下逆さまにしてしまえばよかったのに。普通に下から上へビルが建ってますもんね。

 

「童夢」の構図、だまし絵みたいで分かり難いので、上下逆にしたものも掲載しておきます。ついでに「いぬやしき」も。映画で撮るならヘリで上空からカメラを上下逆に持って撮影しないと撮れない構図ですね。常軌を逸した世界を表現する面白い構図です。

 

 

「童夢」

「いぬやしき」

 

次にどちらも建物の爆発を描いたコマ。見開きを使っているので読者に印象付けたい画だと思うんですが、どちらがインパクトがあると感じますか?

「いぬやしき」の方は写実的で細かすぎて、どこが爆発しているのかさえ分かり難い。そして何よりも心に残らないんです。何かの写真か、映像のワンカット、ニュース映像のキャプチャをチラッと見せられただけのような。構図に何のヒネリもありませんから。

大友克洋も写実的な画風の人です。けれど上の爆発している団地の絵には嘘があります。一番上に載せているシーンから分かるように、ここは細い道路を隔てて同じような棟が沢山連なる団地です。団地の側面に全く影が無いなんてありえないはずです。道路を挟んだ対面の棟の影がかかってるはずなんです。もっというと、これだけ棟全体が見える位置まで下がると、対面の棟が視界の左側にかぶさってくるはずで、写真で再現しようとしたら無理な構図なんです。ただただ見せたい画、描きたい画、構図、頭の中にあるイメージを描いているだけです。それでいいというかそうあるべきだと思います。

 

漫画はイマジネーション(想像力)で描くべきだと思うからです。読者の記憶に残る画、構図(コマ、見開き)を、漫画だからこそ出来る技法で見せてアッと言わせて欲しいのです。

 

この「いぬやしき」の見開きは何を見せたいのかハッキリしていない、漠然と描いているような気がするんです(明らかに何らかのデジタル制作だと思うので「創っている」という表現が正しいのかもしれませんが)。東京の繁華街で二つの大きめな爆発が起こっている。ただそれだけ。爆発の経緯はこの前のページで描かれていますし。例えばですが、爆発の周りのビルのスクリーントーンを削って、もしくはホワイトを入れて爆発の炎の照り返しで明るくなっているように描いて、もっと爆発を目立たせればいいのにと思ってしまいます。ただ現実的には炎より煙がたちこめて、そんなに明るく見えず「いぬやしき」の画は正しく、確かにリアルではあるとは思いますが全く印象に残らない。このリアルさが作品において意味や重要性を持っているなら良いのですが、残念ながらそういったものは感じられませんでした。

(ストーリーも陳腐。犬屋敷さんは終始心優しい善良な人だったのでありきたりな自己犠牲エンドでも納得できるのですが、獅子神はあんだけ滅茶苦茶しておいて自己犠牲で水に流せない。とある家庭との交流を通しての心境の変化や自己犠牲に至る理由をもっと掘り下げないとダメでしょう)

 

(ちなみに写実的な背景でも違和感がない作品もあります。「ウシジマくん」とか。現代でほぼリアルに起こっている出来事を題材にした漫画ですから、背景も写実的であった方がいいわけですが(つまりリアルさに意味がある)、背景がキャラの邪魔をしないよう配慮されてます。細い線で描かれ単一のスクリーントーンを貼って、目立ちすぎないようシンプルに、単調に。)

 

最後におまけでジジイ比較を。

人も写実的な画風なら良かったんですけど、アニメのキャラクターのような画風なんですよね。線にあまり強弱がなくクッキリとした一本線で、陰影も全てスクリーントーンで済ませてしまっている。今のアニメって背景や無機物をCGで描いてるものが多いので、このマンガ自体アニメそのものって感じ。これがデジタル制作が進んだ今の漫画の作風の一つと言えるのかもしれないけど、この作風の存在意義に疑問を感じるおっさんでした。

「童夢」

「いぬやしき」

 

それと、擬音の「描き文字」が下手すぎて折角デジタルでリアルに描いた画がマヌケな感じになっているので、「描き文字」を練習するか、いっそ、デジタルフォントを使って歪ませる加工等でそれっぽくした方がいいんじゃないでしょうか。

いや、「描き文字」を全く使わないというのもアリかもしれません。デジタル制作を全面的に押し出すなら、これまでにない革新的な表現を模索して欲しいものです。

 

 

 

【ネタバレあり】

これで物語シリーズも一つの区切りとしての結末を迎えた感じです。続刊がまだありますし、「続・終物語」なんてのもありますが、個人的にはこれはアニメ化しない方がいいような気がしたり。。。(でもこれがないと「花物語」で忍野扇がなぜ男子になっているのかや、神原駿河が、母、臥煙遠江の夢を突然よく見るようになったのかが分からないんですが)

 

忍野扇は阿良々木暦が生み出した怪異だったとは。。。分からなかった。。。

「くらやみ」ではないとは思っていた。めっちゃそっちへミスリードさせるような発言が多すぎて。でも、阿良々木暦ってちょっと理解できないところがあるとは個人的に感じていた。根本の「傷物語」でとった行動が特に。泣き喚きながら懇願するキスショットを自分の身を犠牲にして助けてしまったのは分かる。「友達はいらない。人間強度が下がるから」なんて考えを持ってるところから自暴自棄に、美しい吸血鬼に魅せられて、思わずとってしまった行動として。しかし、人間を食べるキスショットを目にして狂いそうなくらい過ちを犯してしまったと後悔し、羽川に諭されて自分の過ちの責任を取るためにキスショットを倒すことを決意する。が、倒す直前にキスショットは殺されることを望んでいると気付いてしまい、殺すのを辞めてしまう。同情し、動揺し、躊躇するのは分かるが、見た目人間と変わらず、知性があり、感情を持つが人間とは相容れない吸血鬼、そして本人は死にたがっているのに。混乱していたのであろうが、忍野メメに「皆が幸せになる方法を教えてくれ」なんてとんでもないことを言う。流石に忍野メメも珍しくストレートな辛辣な言葉「そんなのあるわけないじゃん。馬鹿じゃないの?」と言い捨てる。それでも、尚且つ忍野メメがしょうがなく提案する「皆が不幸になる方法」を選択してしまうという。。。この阿良々木暦の行動は理解し難かった。異常な選択だと思った。だから、ここから自分は間違った選択をしたのではないかという自己批判が始まったのだろう。けれど最終的には自由の身となったキスショットが再び阿良々木暦の影の中に縛られるという選択をし、共に生きるいう考えに至らせたのだから、阿良々木暦は正しかった、というか「皆が幸せになる」ところまで導いて物語は完結した。

(斧乃木余接の「幸せにならないから勘弁してください、幸せになろうとなんかしないから、どうか許して下さい、どうか見逃してくださいと言っているようにも──」。「不幸なくらいで許されると思うな。ハッピーエンドを目指すべきだ」や八九寺真宵の「阿良々木さんみたいに、手に余るものや身に余るものを求めた場合は、そのやりかたでは無理でしょうね。──成功するしかないんじゃないですか?」という台詞は、こういう結末を目指すべきだという意味だったんですね)

 

それにしても西尾維新はどこまで伏線として用意して、どこから後からの発想でつなぎ合わせたのかが分からないですね。つなぎ合わせる発想、アイデアが豊かそうで。例えば蝸牛がナメクジの近縁種で三竦みからナメクジは蛇を抑え込めるから八九寺真宵は北白蛇神社の神様になれる、とか多分こじつけでしょう。しかし、こじつけにしては綺麗にまとまっていて。。。たしかあとがきに書いてあったと思うんですが、最初「化物語」だけで終わるかもしれなかったと。春休み、ゴールデンウィークについては化物語で触れられているので「傷物語」「猫物語(黒)」はざっくりと頭に物語があったとは思いますが、セカンドシーズン以降はアニメ化されて勢い付いて書いた感じでしょう。だからセカンドシーズン以降から伏線を張っていってるとは思うんですが。。。ナメクジの件も「鬼物語」ではリュックサックを背負っていない八九寺真宵をナメクジに見立て、ナメクジはカタツムリの貝が退化したものという話が出てくるし、「恋物語」で貝木が千石撫子を蛇神から戻すのに蛞蝓豆腐という怪異もどきを用いている。なので「鬼物語」から伏線を張っていってる可能性はあるんだけど、神様になるためにそれ相応の資格、条件があるという話は出てなくて「終物語(下)」で〝地獄から戻るという奇跡を起こしているから″とか条件的な話が出てくる。当初臥煙さんはキスショットを神に据えようとしていたが千石撫子が神様になってしまった。キスショットは怪異の王だから蛇だろうがなんだろうが抑え込めるだろうけど、千石撫子が神様になれるんなら誰でもなれそうな気がする。しかし千石撫子も自分の中にクチナワさんを作り出していたからすんなりと蛇神化できたとも考えられる。そして「暦物語」では忍野扇が今の北白蛇神社は別の場所から移動して作られたもので、そぐわない場所に移したがために(つまり海蛇・水蛇の神様を山に移したがために)よくないものが集まるエアスポットになってしまったということをほのめかす話、つまり相応する条件的な話が出てくる。うーん、考え出すとより一層、どこから伏線で、どこから後で話を膨らませたのか分からなくなりますね。。。「化物語」からずーっと「浪白公園」の読み方が分からないというのを引っ張っていて、キスショットが南極から飛んで着いたのが「白沱」を祀った沱白神社があった湖で現在の「浪白公園」のある場所だったとかのあたりも。。。

(観直すと、読み返すと、千石撫子は相応しくなかったから暴走したという説明がありましたね)

 

ちなみに忍野扇が「くらやみ」とミスリードさせる発言が多かったと書きましたが、これも単にミスリードさせるためだけの発言じゃないところも面白い。忍野扇は「くらやみ」を模していたわけですから、言ってることに嘘偽りはない。このあたりも西尾維新らしいというか。小説、物語でよく使われる「ミスリード」という手法に対して挑戦しているというか遊んでいるというか。一般的に「ミスリード」はいくつかの意味に捉えられる微妙な表現、言い方を用いたり、偶然やタイミングによって読み違い、深読みをさせたりするものですが、発言は曖昧でなく嘘でもなく且つミスリードとしても成立することに挑戦したような印象です。

 

アニメで印象的だったのは、まず暦を抱えて座るキスショット、というか忍野忍。これはやはりヴィジュアルとして見たいところですもんね。いい絵面でした。

「くらやみ」に呑まれる前の扇ちゃんの「お疲れ様でした」が凄く軽い感じのトーンで、バイトを上がる女の子が言う感じで、それがなんとも忍野扇らしかったというか。小説に「軽やかに」とか書かれてるわけでもないので、声優さんのアドリブというか演技というか解釈なんでしょうけど、すごいな、と。

そして物語の最後として一番好きな暦と忍のやりとり。「お前が今日を生きてくれるなら。。。」。このシーンの忍の真っ赤に広がるドレス、母のように暦を抱き、そして吸血鬼の翼で覆うさま。小説には全くそんな情景描写はなく、"臥煙さんは、僕のそばに立つ金髪金眼の幼女──ならぬ妖女に、声をかけた。"としか書かれていない。なのでアニメオリジナルの演出だけど、妖艶で美しく、感動的だった。

 

この後に刊行されている「物語」のアニメ化はあるのかなぁ。「続・終物語」の老倉育は西尾維新のサービス精神によってちょっと引いてしまうぐらい別キャラとして書かれてるからあんまりアニメで見たくないけど、「結物語」の阿良々木暦と老倉育のやりとりは見たい。戦場ヶ原ひたぎと老倉育のオーディオコメンタリーのノリそのままな感じで面白かったので。「もしも、三十路を過ぎてもお互い独身だったら。。。」のあとの締めの台詞が最高です。

 

追記:

オーディオコメンタリー聞きました。羽川翼☓忍野扇。

相変わらず、忍野扇は「巨乳」いじりの毒舌を展開していましたが、この巨乳に対する執着心は阿良々木暦の執着心の裏返しなんだと思うと、どんだけ!と思います。。。

 

ちなみにエンディングの卒業写真が放映時とBlu-ray版で違ってました。

【ネタバレあり】「終物語 まよいヘル」に続いて。

 

TVオンエアではOP曲がなかったけど、ブルーレイ&DVD版ではOP曲が付くんでしょうね。楽しみです。

羽川と合わせてダブルメインヒロイン的でありながら脇役的な扱いがずっと続いていて、「恋物語」は貝木がメインヒロインだったし、暦の前でデレる戦場ヶ原ひたぎは、チョコを渡すシーンとかちょびっとだけだったので、やっと見たかったひたぎが見れたという感じですかね。

いやぁ、ラブラブすぎる内容。原作の流れ通りだけど、間に扇ちゃんの星座解説シーンが入って良かったと思うくらい。あれが無かったら、ちょっと恥ずかしくて見てらんないっていうか。。。

アニメの良かったところは科学館で楽しそうなひたぎをヴィジュアルとして見れたこと。小説にも「結構はしゃいでいた」とは書いてあったけど、細かな描写は全く無かったから。アニメではカットされた台詞「もう一周しましょうか!」があるから小説でも楽しかったんだろうなという印象は得られるのだけど。

あとはホワイトデーのお返しを用意できなかったことを謝る暦に「お返しを期待してチョコレートを作ったわけではない」と言った直後に閃くシーン。小説では急に車を路肩に止めた、としか書かれてないが、アニメではアクセルを踏み急にスピードを上げ、急ブレーキでドリフト気味に海辺に車を止める絵的な遊び。最後のやり取りの場所を海辺というベタな場所へ持っていくという発想。小説ではひたぎの運転は非常に上手く、レンタカーにMT車を選ぶこだわりぶりや、ギアを入れる動作が様になっていたと説明、描写されていて、アニメも忠実にMT車であることは描写していたけれど、この演出で運転の上手さも伝わるわけで。

 

アニメを見た後に小説を読むというパターンで辿ってきたのだけど、小説からのカット加減やアニメ独自の見せ方がいつも上手いと思う物語シリーズ。

ただ、一点ここはカットするべきじゃなかったと思う箇所が個人的にはありまして。

「猫物語(白)」の後日談。アニメでは「あれから十日ほど過ぎて借家が見つかった」というシーンで民倉荘を後にする描写があるので、阿良々木家でお世話になった後、また戦場ヶ原の家に泊めてもらっていたことは想像できるのだが、その経緯あたりから。

阿良々木家から戦場ヶ原家へ移ったのは、戦場ヶ原のお父さんから半月ほど海外出張になったから是非娘と一緒に過ごしてやって欲しいと頼まれてのことだった。もちろん都合よく出張が入ったわけではなく、戦場ヶ原ひたぎから頼まれて自ら出張の予定を入れたのだ。羽川は出張に出る戦場ヶ原のお父さんがひたぎにこう告げるのを目撃する。娘の頭を撫でながら「ひたぎ。僕は、友達が困っているときに助けてやれる人間になりなさいと、ずっとお前に言ってきた。お前はその通りの人間になった。こんなに嬉しいことはないよ」と。このエピソードから、暦との初デートのときには父娘、お互いに唯一の家族だから大切に思ってはいるが微妙な距離間だった二人(仲が悪いわけではなく、ひたぎはファザコンを自称してるぐらいだし、けれど父は「必要としてくれているときにそこにいることができなかった」ことに負い目を感じていたため)が打ち解けていったことが分かる。まず暦を紹介したことが打ち解け始めるきっかけだったであろうが。この父娘の関係の進展が「ひたぎランデブー」で父とのデートをとても大事にしているところに繋がってくる。

それから苛虎とブラック羽川を自らに受け入れる決意をしたときに、これで私は今までの自分とは変わってしまうかもしれない、と羽川は考えていた。その辺はどうなったのか。前述の通り、羽川は戦場ヶ原と二人きりで生活することになった。苛虎とブラック羽川を取り込んだ羽川は最初、情緒不安定の極みだった。少なくとも一緒に生活していて心地いい相手ではなかったと思う。と書かれている。だけど戦場ヶ原は自分はどうやってそんな感情のうねりを乗り越えてきたのかを逐一教えてしっかりとサポートしてくれた。けれど、衝突もしたし、喧嘩もした。とある。あの羽川が喧嘩?と読んでいて思った。また、お互いにどうして阿良々木暦を好きになったのかも語り合っている。そして十日ほどで借家が見つかって民倉荘を後にする。そのときに二人は号泣する。このエピソードが無いと羽川と戦場ヶ原があれほどの親友の間柄になったのが伝わりにくい。塾跡の廃墟で寝ていた羽川を泣きながら叱るエピソードやその後二人で過ごす様子はあるが、それだけでは弱いし、羽川が苛虎と障り猫を取り込んだあと、どう乗り越えたのかが分からない。大した変化は無かったのか?と思ってしまう。この親友に至るエピソードは「ひたぎランデブー」での暦の「だからお前の友情感、ちょっと重いんだって」のくだりに繋がるし、「おうぎダーク」のラスト「おかえりなさい。つばさ」に繋がるのでアニメでカットするべきじゃなかったよなぁと。ただ、「猫物語(白)」の放送後に「終物語(下)」が刊行されているので、アニメ制作サイドの落ち度とはいえないのだけれど。。。

 

 【ネタバレあり】


3ヶ月前ぐらいに「化物語」を見始めて、ハマって、物語シリーズをずっと見続け、小説にも手を出して「終物語(下)」も買ってあったけど、アニメを見てから小説を読む、アニメの発表順に観る、というのを続けていたので結末を知らないまま、初めてリアルタイムで放送を観た。そしてそのあとに小説も読んだ。なので感想を。

 

まずオープニング曲。物語シリーズのOP曲、ED曲は良いものばかりだけど、今回も良かった。「terminal terminal」。八九寺真宵の声を担当している加藤英美里さんのすごいところは全くキャラの声そのままに歌えるところでしょうか。彼女の地声自体が甲高いということもあるんでしょうが、他の声優は歌は発声方法が違うからか、キャラの声から結構離れていたり、微妙に違ったりなので、キャラ声そのままということにいつも感心。歌詞も相変わらず物語の内容、キャラの心情を的確に表したもので素敵。臥煙伊豆湖の言う「こよみんのミラクル」、暦が地獄から真宵を思わず連れて帰ってしまうという「奇跡」。「帰り道」が最初の曲のタイトルで、帰るべき場所、愛しい場所、いつでも帰れる場所、お家(神社)に辿り着いたという。。。

 

暦物語のラストで真宵が登場し、小説は読まないようにしていたけど、タイトルが「まよいヘル」ということは知っていたので、真宵、地獄に落ちちゃってたの?そりゃねぇよ。。。と観る前から思っていたのだが、暦が自分が地獄へ落ちたことにショックを受けながらも、真宵が地獄へ落ちたことに憤慨する姿があり、安心した。

地獄巡りにおけるウエダハジメ氏の絵による演出は相変わらず色彩豊かで可愛らしく美しかった。

手折正弦の説明はアニメを一度観ただけでは完全理解はちょっと厳しい。小説で補完して納得。

「まよいヘル」の最大の見どころは、やはり真宵が暦を殴るところですかね。叱咤激励の。最初の一発は全力で「えいや!」。その後は、小説では「ぼすぼす」とあまり力が入っていないような表現がされていたけど、アニメは絵の演出として、小学生女子ながら腰が入ったパンチを表現していて、真宵の気持ちが伝わってきて良かった。うだうだしている阿良々木暦を奮い立たせるシーンですからね。その後の長台詞でギャグを織り込むのも物語シリーズの安定感。「失礼、噛みました」シリーズも。「噛みまみなみさみなみわみあみやみたみはみらみ」。原作者ながらアニメ版の大ファンであり、アフレコ現場にも何度か立ち会っている西尾維新のことだから、「これ声優さんに言ってもらお」と書いた気がする。。。

 

そして完全体のキスショット登場。暦とのペアリングが切れて完全体となったわけだが、暴走するとか、自分の好きなように勝手に生きるとかの選択肢はなく(小説では臥煙さんは暦をブチ殺す可能性が一番高いと思ってた、とある)、「阿呆が。心配させおって。」と暦の頭を撫でる。「傷物語」のときのキスショットではもうなく、「偽物語」でようやく喋り、なし崩し的に和解した当時の忍野忍でもなく、その後の多くの経験を共にして絆が芽生えた、忍野忍の完全体。

見た目的には「傷物語」の絵のタッチのキスショットの方が綺麗でカッコよくて好きだが、アニメ版のは忍野忍の完全体ということで。

 

そういえば、どれかの「あとがたり」で、「浪白公園」の名を暦が口にするようになっていた台本を、神谷浩史が原作では読み方を知らないことになってますよ、と「あの公園」に直したと語っていたけど、直してなかったらヤバかったでしょう。。。

 

追記

BD買いました。オーディオコメンタリーは忍野忍(完全体)と八九寺真宵。

これまでロリコンビとして結構副音声に登場した組み合わせながら、忍が完全体となり、言いたい放題だった真宵を脅す、絡むで八九寺Pの大ピンチ。と思いきや21歳の真宵お姉さんになったり89歳になったり相変わらず自由奔放な真宵でした。

 

 

 

社会人になってから漫画雑誌を買わなくなって久しいのだけど、「白暮のクロニクル」が結末を迎えそうということで、ビックコミックスピリッツを2ヶ月ほど買っていて知ったマンガ「あさひなぐ」。

ツボにはまってしまった。

 

薙刀を題材にしたスポ根モノで、作者は女性作家。

2000年以降、女性作家の少年誌、青年誌での活躍が年々加速しているように思う。

「鋼の錬金術師」の荒川弘、「荒川アンダーザブリッジ」の中村光、最近では羽海野チカによる「3月のライオン」などなど。羽海野チカを前者2つと紹介の仕方を逆にしたのは、羽海野チカはその前に「ハチミツとクローバー」を女性向け漫画雑誌に掲載していて、荒川弘、中村光が男性作家と変わらない絵柄、画風であるのに対し(でもなんとなく分かってしまうのだが)、羽海野チカは女性作家らしい絵柄であることもあって、分けてみた。

こういう傾向は驚くことではなく、自然な流れだとは思う。例えば私が小中学生だった1980年代の頃は少年漫画を読む男性と女性の比率は7:3ぐらいだったと思う。(ものすごくなんとなくの想像の数字で申し訳ないが)1970年代以前はもっと女性の割合は少なかったと思う。高橋留美子やあだち充が女性読者を増やした立役者な気もする。ともあれ、その後徐々に女性読者が増え、今は5:5と言っても過言ではないと思う。雑誌ではなく、単行本の購入者ともなれば尚更のこと(但し、エロ要素オンリーのマンガなどは除く)。

少年漫画、青年漫画を読んで育ったなら、描きたいと思う人が出てくるのは当たり前のことであろう。

昔の名残で少年誌、青年誌、少年漫画、青年漫画と表現されてるが、もう随分と前から実体に合わない呼び名になってしまっている。一般的にただ「マンガ」と言えばこれらを指し、逆に男性読者は1割未満であろう漫画を「少女漫画」や「女性向け漫画」と区別するのが妥当だ。

 

前置きが長くなってしまったが、こざき亜衣という女性作家による薙刀スポ根マンガ「あさひなぐ」。昔から続く古典的スポ根モノでありながら、女性作家ならではの部分も垣間見える面白い漫画。

絵柄はモロな少女漫画風ではないが、ひと目で女性作家と分かる絵柄。そして御存知の通り、薙刀は女性の武道であり、スポーツということで、主人公はもちろん大半のキャラクターは女の子。過酷な練習を積み重ね、努力と根性、ライバルや先輩、後輩との競い合いから強くなっていく主人公というところは、スポ根の基本としても十二分に面白い。

そもそもナギナタを題材にしたところが面白さのポイントでもあるだろう。マンガのコマ割りで見せるのに向いているスポーツだと思う。題材として多く取り上げられながら、案外マンガに向いてないと思うのがサッカー。TV中継の構図から明らかなように、選手の位置、動き、ボールの軌道が分かり易いグラウンドを俯瞰した構図が適しているところを細かいコマ割りで表現していくから。常に動き続けるスポーツだから。チーム人数の多い野球がマンガに向いているのは野球が静と動の繰り返しで、グラウンドは広いが、各ベースや守備位置がある程度固定されていて、描くポイントが明確だから。そういった点で、個人種目でコートも狭く、静と動のスポーツである薙刀はマンガのコマ割り表現に向いている。そして剣道よりもビジュアルとして魅力的なのが薙刀の長さ。近接競技でせせこましくなりがちなところを大きく魅せることができる。

読んで知ったことだが、構えの型が5つあるのが面白い。基本は中段の構え。切先を相手に向け、腕を下ろして腰辺りの位置に薙刀を構える。試合開始はこの構えで切先を合わせて始める。上段の構えというのがカッコいい。薙刀を振りかぶって切先は後ろに頭上に構え、あとは振り下ろすだけで攻撃できる、マンガでビジュアル的に見栄えする構え。けれども試合で使われることはあまり無いらしい(YouTubeで多少試合を見ましたが、ほぼマンガからだけの知識ですみません)。防御がガラ空きになるから。バトル漫画でいうと攻撃力は高いが自分にもダメージが起こる必殺技のようだ。

知らないスポーツだから、そういうことを解説されて知るだけでも楽しい。別にマンガの中でいちいち解説的なセリフが入るという感じはない。高校に入り何も知らずに薙刀部に入った女の子が主人公だから、先輩たちが教える体で織り込んであるから。

 

女性作家ならではの魅力というのは各キャラクターの心理描写、言動、行動が女性ならではという感じで、これは男性作家には描けないだろうというもの。スポーツは当たり前だけど、弱肉強食の世界。後輩だろうと強い選手は先輩を差し置いて団体のメンバーに選ばれる。男性作家は壁を殴って悔しがる姿なんかで済ませたりするが、この漫画は各自の嫉妬や自分の不甲斐なさなどのぐちゃぐちゃとした感情を主人公を問わず、事細かに描写する。普通よくあるパターンとしては、そういうぐちゃぐちゃとした感情を表現するためのキャラを用意したりする。嫉妬やウジウジした姿はキャラクターの印象を悪くするかもしれないから。でもこの漫画では各キャラそれぞれの個性に合わせて万遍なくぐちゃぐちゃした感情を描いている。そういう描写の中に女の子らしい考え方、言動だな、と感じるものが少なくない。

反面、気概や気迫をズバッと描くところは気持ちいい。コマ割りなんかも大胆でライバルとの対決では見開き、右に主人公、左にライバルをコマ割って、大きな文字で心の中をモノローグとして添え、そのモノローグの言葉が対比になっていたりして、読んでいて引き込まれる。心の機微が細かく描かれているマンガだと思う。

一応弁解を述べておいたほうが良いと思うが、「男性」と「女性」を比較、区別したような物言い、論述というのは、下手をすると差別と捉えられてしまうかもしれない。そういうつもりはなくとも、そう感じる人が居れば差別やハラスメントになってしまうものだ。このブログを読んで違和感や不快感を感じた方がいらっしゃったら、申し訳ありません。

でも、この魅力に気付いて考えが及んだのは、男性作家が描く女性キャラクターというのは女性からすると、違和感だらけなのかもしれないということ。女性読者は違和感を感じながらもマンガの世界ではそういうもの、と読み流しているのかもしれないな、と。

 

話があっちこっちに飛んでしまったが、今後の「あさひなぐ」の展開と女性作家の更なる活躍に期待します。

 

 

今更ながら西尾維新の物語シリーズにハマりまして。

アニメのシリーズをちょこちょこレンタルして見始めたら思いの外面白くて。

原作小説にも手を出すように。

 

しかし、「ライトノベル」というジャンル分けっていつ頃から出来たんでしょうね。

西尾維新自身が作中でキャラクターにライトノベルに関するメタ発言をちょこちょこと言わせているので、このシリーズが「ライトノベル」に分類されると自身でも認識しながらも「だからどうした?」という姿勢も伺えます。

 

化物語に「いいよ。四人掛けのベンチを一人で占領していることに、若干の心苦しさを感じていたところだったんだ」って台詞があり、こういう感じがライトノベルらしい表現とネットで(まぁ2ちゃんです)見掛けたんですが、こういう日常会話では普通使わないだろう気取った言い回し、村上春樹の小説でよく見かける気がするんですが。

物語シリーズは会話劇と呼ばれるくらい「会話」ばかりで物語が進んでいくんですが、村上春樹の小説だって大体そんな感じです。もう少し主人公の心理描写や場所、風景の描写がコマメに入ってるかなぁってぐらい。あと、物語シリーズではドラえもんだったり、近年というか近代のサブカルネタをちょこちょこ入れてきたりするわけですが、村上春樹だってやたらとジャズやクラッシックのタイトルを話の中に入れ込んで来ますよね。それも物語にあんまり関係なく。それを聴く主人公の描写でもって主人公の嗜好を伝えたり、お店で流れている描写で店の雰囲気を伝えようとしているのかもしれないけど、正直選曲がマニアックというか特定の世代、趣味嗜好じゃないと分からないものも多かったりであまり効果的とは思えなかったり。

まぁ、これらは一例ですが、本当に私個人の感覚でしかありませんが、村上春樹の小説と西尾維新の小説に大きな違いがあるように思えないんですよね。それが片や、ノーベル文学賞の候補に挙がったりするわけで、本当に私個人の感覚で、非難を浴びるのを覚悟した上で、よく分からん、というのが正直な気持ちです。

(村上春樹の小説が嫌いなわけではありません。個人的に似ていると感じてるぐらいですから、西尾維新の小説と同じような感覚で楽しんでますし、ノーベル文学賞の件は、もしかしたら村上春樹氏も実は困惑していたりするのかもしれません。)

(追記:とは言え、同列に語るのは流石に無理があるかと思い直しました。メタ発言とか、ちょっとオフザケが過ぎますから)

 

ついでに言いますと、私が中学の頃に熱中した山田風太郎の忍法帖シリーズ。これ、現代においてジャンル分けしたら、ライトノベルになると思います。全く読んだことのない人は、忍者が活躍する時代の物語なので、時代小説と捉えてしまう人も居るかもしれませんが、吉川英治なんかの文体とは全然違います。どころか、「自分」を漢字でなく「じぶん」と書いたりとひらがなを多用し、とにかく読みやすさ、テンポの良さを重視した娯楽小説です。だからこそ、あの時代に人気を得たんだと思います。

 

つまりは、わざわざ「ライトノベル」というジャンル分けをすることに意味は無いんじゃないかと。時代とともに変わっていくカルチャーでもあるわけですから。

極端な話、「源氏物語」なんかも当時としては今の感覚でいうところの「ライトノベル」みたいなものだったんじゃないかと思ったりもします。

だからどうした?という話ではありますが。。。なんとなく思ったことを書いてしまいました。

 

追記

一応、私なりのライトノベルの解釈は『マンガ的要素が強い小説』です。

マンガ的要素とは、例えば登場するキャラクターの設定。マンガは登場人物を分かり易く、ちょっと極端な性格付けをしますよね。かなり極端な例でいうとドラえもんのジャイアン、スネ夫、のび太のような。漫画は見た目も含めて「記号化」して分かり易く表現されて作られています。最近は、というか結構前からそうではない作品もありますが。一方、一般的な小説の登場人物はそういう極端な性格付けはしません。リアリティを持った人物描写をするわけです。現実の世界でも、正義感の強い人、怒りっぽい人、など、大雑把に性格の傾向を見出したりしますが、人間は多面的であるため、単純にキャラクター設定できるものではないからです。

他のマンガ的要素としてはギャグやコメディーを盛り込むとかでしょうか。一般的な小説に盛り込まれるとしたら「ユーモア」程度です。要するにマンガは週刊、月刊連載で、毎話楽しませて読者を引きつける必要があるため、過剰にそういったエンターテイメント性が盛り込まれるわけです。お色気サービスなんかもそうですね。こういったマンガが読者を楽しませるために蓄積してきたエンターテイメントのノウハウを活用して書かれた文章による物語がライトノベルというジャンルになるんだと思ってます。だからライトノベルと呼ばれる小説の表紙はマンガ的、またはアニメ的イラストが用いられるのでしょう。

けれど、ライトノベルとジャンル分けされ、一般小説と区別されたとしても、単純に文学性が低いとはいえないだろう、というような趣旨を書きたかったわけです。その例が西尾維新の小説で、ギャグやエロやロリ嗜好や妹萌えといったマンガ的サービス要素を除くと、純粋な青春物語であったり、人間にとって「正しさ」とは何なのかといった難解なテーマに挑んでいたり、同音異義語の繰り返し表現等の言葉遊びで日本語の面白さや奥深さを気付かせてくれたりと「たかがライトノベル」と言ってしまうのは勿体無い小説だと個人的には思いまして。でも、そのギャグやエロといったマンガ的サービス要素が鬱陶しい、性に合わない、という人も沢山いるとは思いますが。

 

 

 

最新刊の第11巻を読みました。

流石に展開に巻きが入りましたね。まぁ今までのペースのままだといつ終わるのか分からないぐらいでしたから。

サッカー部の赤井弟、前に書いたとおり、やはり野球部に入りそう。

ここにきてまた新キャラも。まぁ3年まで描くなら部員やライバルはちょこちょこ増えるでしょう。

それにしても投馬と音美の恋愛はあるんでしょうかね。

今までのところ、再婚同士の結婚による連れ子なためにお互い気遣いをしながら仲良くなって、育ってきたから色々と思い出、想いが多いようですが、恋愛にまでいくのかな?って感じです。「みゆき」もまぁそんな感じでしたが、もうちょいお互いに意識を持っている感じに描かれていたので。

でも、やっぱり定石からいって主人公とヒロインはそうなるでしょう。

 

最新刊の第31巻を読みました。

ここ最近の宇宙兄弟の感想では、ワクワクの世界、ドキドキの世界、ハラハラの展開と言った表現をしてきましたが、それから比べると地味な話に感じてしまう内容でした。

まぁ27巻あたりから怒涛の展開でしたからね。

地味な話というよりは大人な話と評価すべきかもしれません。

宇宙兄弟は名言も多く、名言集的な本も出ているみたいですが、この巻ではバシッとした名言的表現もありません。が、さりげない名言がいくつかあったように思います。

一番印象的だったのは、「”諦め”ってある意味では”決意”に似てるよな」

この作品は幅広い年齢層に読まれていると思いますが、この言葉の意味は年齢が増すほど共感も増すものではないでしょうか。

何かと子供っぽく表現されていたオリガも大人っぽく描かれていましたし、只々陽気なフィリップの新たな一面も垣間見れて、落ち着いた話の展開でもやはり面白い漫画だな、と思う次第でありました。