数年前にインドに行きました。
生と死に関して色々と考えることがあり、
ますます楽な思考になりました。
その時の感覚は、ただ一つ、
ますます「どうでもいい」という
感覚が強まった、ということ。
すべてのことが
「それでいいのだ!」という
バカボンパパのような感覚。
野良犬がたくさんいました。
ワンコたちが置かれた環境で、
ただただ一生懸命生きている。
いや、一生懸命すら感じていない
ことがわかります。
以前、ニュートラル思考について
書いたことがありましたが、
私の他人との関係に関する
一つのルールとして
「他人のことはどうでもいい」
というのがあります。
まずは、この記事、永久保存版なので
読んでから下記を読み進めてみて
くださいませ。
一見、冷たく聞こえるかもしれませんが、
愛する人々に関しては、
「どうあってもいい、
あなたはそれでOK!」
という意味での「どうでもいい」。
関わることがない他人には、
「どんな価値観であってもいい」
つまり他人に対して、
特にジャッジすることはないです。
やりたければやればいいし、
やりたくなければ、
やらなければいいし。
もちろん、付き合う人々に対しては
好みはあります。
嫌いなタイプも居ますが、
嫌いな人なその人に向かって
ジャッジしないのは、関わらなければ
いいと思っているからです。
ジャッジをするのは、
神様と裁判官くらいなので、
私がすることではありません。
最近さらにその感覚が加速するのですが、
インドは、私が生きるための
ヒントがあまりにも多くあり、
さらにいろんなことが掘り起こされました。
座学の勉強では決して学べないことを
学んだ感覚です。
数十年かけて学ぶことが、
たった1回のインド旅行で気づきがあり
それを伝えられるのもよかったな、と。
その時に、人々の関心事が
少しわかったような気がしました。
インドでのインスタライブを
何度したのですが、
視聴者が本当に少なかったこと。
それがNYとかパリとかなら
視聴者が多いのに、発展途上国には
興味がないのかな、と思いました。
きらびやかな世界が好きな人が
多いのでしょう。
きらびやかな世界よりも
こういうところのほうが
ずっと考えることが多いんですけどね。
生と死に最も近いところのような
気がするからです。
インドに行った時に、
エゴがないと思っていた自分でしたが、
家族に対するエゴを見つけてしまい、
あまりにも深く納得したのでした。
人は、無意識に自分の価値観を
他人に押し付けようとしているのだな、
と思った瞬間でした。
無意識だから厄介です。
しかし、わかったときには
半分以上は解決しているものです。
自分が心地いい、と思っていることが
他人にとって心地いいわけではない
というのはわかっていたつもりでも
唯一私は、家族(父と兄)に対して
その気持ちが強かったことに
気付かされたのもあのとき。
それ以来、家族の関しては、
肩の荷が一つ降りた気分で、
楽になりました。
自分の価値観でジャッジしたり
良かれと思って相手のために
やろうとしていることが
結局余計なお世話の可能性あり。
一番は、相手の望むことを優先
することなんですよね。
エゴというやつは、優しさという
ベールがかかっていることもあるので
見破りにくい。
自分のエゴは気付いてあげた途端、
小さくなります。
気の抜けた感じの、いい意味での
「どうでもいい」・・・
これは私にとってはニュートラルな
立ち位置になれ、そして案外
冷たそうに見えて優しいものです。
愛は時々面倒なもので、
執着させたり、良かれと思って
余計なお世話をしたくなったり、
束縛したりと、思い通りに動いてほしいと
思ってしまったりとやっかいなもの。
その愛の中に「どうでもいい」
「どうあってもいい。あなたは
あなたでどうあっても愛している」
というのがあると、ブレずに
楽に生きられます。
そして、自分自身に関しても、
他の人に対しても、ニュートラルに
生きたいものです。
あなたは何に関して
いい意味での「どうでもいい」という
感覚があると楽になれると思いますか?
ではまた明日。