火葬場での待ち時間。

ポツンと兄がひとり。

 

 

母の死part1をお読みくださいませ。

昨日のつづきです。

 

 

さて、母が亡くなった13日の朝、

残りの1000冊のミッションがありました。

出版社では、母のことを言うと

心配かけるだろうと思い、

誰にも言うつもりはなかったのですが、

秋山が母のことを尋ねてきたので、

彼女だけには言いましたら、私の代わりに

泣いてくれまして、何だかそれだけで、

気持ちもスッキリし、あとは、

サイン書きに専念できました。

 

 

黙々とサインを書きながら、

心の中では母に文句を言っていました。

 

 

「なんでわざわざ逝く日を13日選ぶかね?

12と13東京に行くっていったじゃんね?

まさにど真ん中選んで、わざとだよね?

しかも、最後はお兄ちゃんと話をしたって、

私だって最後はお母さんと話したかったのに。

なんで?お父さんこれからひとりでどうすんの?」

 

 

と心の中で、「なんでなんで」を連発した瞬間、

携帯でラジオを流していたのですが、

ラジオがピタ!と止まったのです。

 

 

私は「え?何で止まったんだろう?」と思い、

携帯を見に行ったら、Shiriが作動していました。

そして、別に質問していないのに、

Shiriは勝手に答えていました。

 

 

「深く考えないことです。

 どうにかなりますよ!大丈夫!」

 

 

・・・と明るい声で(笑)

思わず秋山と目を合わせ固まってしまいました。

まるで、私の上記の質問に答えたかのような

ズバリな回答。そう、母は楽観的な人間なのです。

軽い怪奇現象ですが、最近こういう感じのことが

かなり多くて、鳥肌モノです。

 

 

ま、母からのメッセージだと思って

受け止め、深く考えないことにしました。

確かに考えてもしょーがないしね。

 

 

そうこうしているうちに、

900冊を書き上げ、最後の休憩に入ったときに、

母のことでも大変お世話になっていた

友人に母のことでメールをしました。

彼女は霊感がある人なので、母とチャネリングし、

母の気持ちを私に伝えてくれました。

 

 

彼女からのメールでは、

母が無理やり私を東京に行かせたこと。

それは「これからも仕事がんばりなさい!」

というメッセージであったこと。

私のことを誇りに思っていること、

(それは昨日のマッサージ師にも言われました)

13日に逝くことを母は自分で決めていたこと。

全部決めていたことなどを教えてくれました。

 

 

残り100冊を書くときに、

今、まさに私がやっていることは

母の意志でもあることを知り、

ある意味強い確信と、そしてうれしさと、

母の温かさを知り、涙がこぼれそうになりながらも、

(頬を伝っていたけど本は汚してません 笑)

奥歯をギュッと噛み締め、書き続けました。

2017・11・13 忘れないことでしょう。

 

 

 

 

その日のミッション1000冊を書き上げ、

急いでタクシーに乗り、新幹線に乗り、

そして家についてから着替えもせず、

そのまま車を飛ばして実家に行きました。

21時半ころつきましたが、その時は

納棺まで済んでいて、祭壇まで飾られていました。

 

 

納棺師のやる一連の流れも見たかったし、

棺に入れるところも見たかったし、

知りたいこと見たいことすべて

私が来る前に終わっていて、

それもまた悔しくて・・・

すべて見ておきたかった。

 

 

棺の中で眠っていた母は、

病魔にやられたやつれた顔ではなく、

顔も元に戻っていて、

今にもまばたきしそうな錯覚に陥るほど、

今までになく穏やかで美しい顔をしていて・・・

 

 

年寄りなのにまつげの量が多く黒々していて

「エクステ付けやすそうなまつ毛だわ−。

これにエクステつけたら、200本いくわ」

とか不謹慎なことを考える余裕さえありました。

 

 

母の顔を見たときに

涙ひとつもこぼれませんでした。

実感がわかなかったのでしょう。

 

 

ちょうど近所の幼馴染が来ていました。

一緒に二人で棺の中の母を覗いて、

私が「呆気(あっけ)ないよね…」と言ったら、

彼は「なーに、俺達もすぐだぁ」という

何でもない言葉に逆に重みがあって、

誰もが通る道であり、そして私達も

本当にすぐにこうなるんだ、という

変な安心感さえわいたのです。

 

 

だって、私たちはあのときに、

まだ5歳とか6歳、そして小学生だったのに、

なんともう50歳なんだもの・・・ホント驚くわ!

40年なんてあっという間で、気付いたら、

今度は自分がこの棺に入っているのかもな、

と思ったら、心が軽くなったのでした。

 

 

そして、死の前日の状況を兄に聞きました。

母と最後に話をしたのは兄で、

最後に時を過ごしたのは、父でした。

この辺も母の計画通りだったのでしょう。

 

 

なくなる数時間前の最後の夜に、

兄は母の枕元で本を読んでいたそうです。

母が兄に急にこう言いました。

「本を置け。手を握って話をしろ」

(言葉は悪いですが方言なんで)

 

 

兄の手を握るなんて、幼少時代に

お母さんと小さな兄が手をつなぐくらい

久しぶりのことだったと思います。

母は兄のことを最後まで心配していました。

体のこと、仕事のこと、家族のこと、

兄に関しては心配だらけだったのです。

 

 

話し終わったら、スーッと眠りについたそうです。

その日の夜、父は病室に泊まり、

朝方、呼吸が荒くなり、そして、

呼吸の間隔が広くなり、そして息が止まりました。

 

 

父は、母が逝くときにひとりで逝かせたくない!

ということに執拗にこだわっていました。

それは、両親とも死に目に会えなかったことが

心残りだったようです。

父の願いがかなって良かったです。

 

 

私は母と同じく、死に目に会えるとか

会えないとかは重要ではなく、

生きているときに、何をするか?

どうしてあげれるか?などを重要視していたので、

後悔は1ミリもありません。

 

 

亡くなる最後の数日間は、

病院に行った日は毎日、顔や手や腕

脚や足裏を、弊社のアルガンオイルをたっぷり使い

マッサージをしました。母のその時の

幸福感に満ちた顔を忘れません。

 

 

 

この1年間、やるだけやったな・・・

という気持ちでいっぱいです。

そしてすべて母の計画通り。

 

 

入院費用も、葬儀の費用もその他もろもろ

すべて計画通り。多額なお金は残しませんでしたが、

いつも言っていた「お前たちには迷惑を掛けない」

という言葉通りに立派に潔く旅立ちました。

 

 

実家から棺が霊柩車に乗せられ、

火葬場に逝くときに、近所の母と仲の良かった

オバちゃんのひとりが泣きながら、

「さっちゃん、もう行くのかい・・・」

という声を聞いたときに、初めて涙が出て、

崩れ落ちる感覚になりました。

 

 

そして、火葬の前に棺の中にお花を入れるのですが、

父が、母の頬や頭を触り泣いているのを見て、

私はこれまでになく泣いたのですが、

その時、私の背後にあった遺影のほうから、

「何そんなに泣いてんの。ここにいる!」

という声が聞こえたような気がしました。

妄想かもしれませんが「ああ、いるな」

という感覚がありました。

 

 

一連の葬儀の仕来りを行っている最中、

私の不謹慎な妄想が止まりません。

遺影を持たされたときに、

「こんな写真になってしまって・・・」と

再び涙が止まりませんでしたが、そんな中でも、

つまづいて「あーーーっ!」とか言っちゃって、

この階段ですっ転んで遺影を落として、

ガラス割れたら、洒落にならんな・・・とか。

 

 

遺体が焼き上がったときに、

(すいませんパンみたいな言い方で…)

あまりにも立派な骨で、頭蓋骨も

まんま残っていて、最後に頭蓋骨を入れる時

私の妄想内では、作業員が手を滑らせて

「ああああーっ!」とか言って、

「頭蓋骨落として粉々にしたりしてー!」とか

「落として頭蓋骨がコロコロ転がったりして−!」とか

泣きながらも、おちゃめな妄想が止まりません。

そんなことを姪っ子に話して、二人で

クスクス笑っていたり・・・

 

 

不謹慎な私達ではありますが、

そんな私と姪っ子を母は温かく

見ているような気がしました。

 

 

近い親族で、位牌、写真、遺骨を持ち、

また本堂へ戻るのですが、小さな体で

遺骨を持っている父が不憫でなりませんでした。

 

 

葬儀屋さんに、

「お父様に歩幅をあわせてあげてくださいませ」と

声をかけられ、私はゆっくりと父の歩幅にあわせて

美しいイチョウの葉っぱの絨毯の上を

父と肩を並べて歩きました。

 

 

 

 

人よりもかなり足が短い父は歩くのも超遅く、

途中まで合わせてあげていましたが、

さすが渡邊家。誰もが我が道を行く。

どんどん父を引き離す・・・

 

 

 

 

兄も自分のペース。私も父のことを忘れて

自分のペースで歩いたもんだから、

結局こんなに差が出てしまいました(笑)

 

 

 

 

 

 

さて、父は母が亡くなる前には、

不安で不安で仕方がなかったのでしょう。

ほぼ毎晩電話が来ました。

印象的だったのは、父がこういった事です。

 

 

「サチコはうちに嫁に来て、

いいことなんてなーんもなかったな。

かわいそうなことをしたなぁ・・・」と言って

すすり泣いているのです。

 

 

私は「ホントだね。若い時はいいこと何もなかったね。

でも、最後は幸せだよ。お母さんは生きたい、って

言っているということは、幸せだからそう思うんだから。

不幸だったら、生きたいなんて思わないから。

ま、終わりよければすべてよし!ってことで」

 

 

父は「そうかぁ・・・?」なんて言いながらも

自分が母にしてきたひどいことを

思い出していたでしょうか?

 

 

浮気もして、母と私はその浮気相手に

電話したこともありました。

父は、酒も飲んで暴れて、私たちに暴力もして、

母は何度も叩かれ、心も砕かれ、そして、

家のために必死に働かされたのです。

 

 

お金さえあったら離婚してた、

という母の言葉にウソはないものの、

それでも、ガンがわかってからの

晩年の母は幸せそうでした。

家族全員が母を気遣っていたから。

 

 

夫婦は不思議なものです。

そんな大変なことを乗り越え、

若き頃の父のやんちゃは相殺され、

白髪になってから相手を思いやる気持ちを持ち、

最後は、本当の夫婦になる。

 

 

そしてその途端、

たったの1年で片方が天に召されて

いなくなり、結婚生活は終わる。

せつないね・・・せっかく本当の

夫婦になったばかりなのに・・・

 

 

しかし、帳尻があっているのでしょうね。

 

 

今、母はとても軽やかで居るのがよくわかります。

痛みもなく、つらさもなく、モモと一緒に

あちこちに行っているのでしょう。

だから私には母が亡くなったことのつらさは

一切ありません。

 

 

人が誰もが通る道。

そして、これから親の死を迎えられる方に

大丈夫だよ、と言いたいのです。

 

 

親の死は辛いものでもこわいものでもなく、

親の死に目に会えようが会えまいが、

あなたは親よりも長生きできたこと

最大の親孝行ができたことを喜び、

そして、親は今生での全ての学びを終え、

軽やかに元いた場所に戻るのです。

 

 

やはり、死ぬことよりも、

生きている方が現実で大変なこと。

母は今喜びに満ちています。

四十九日が終わったら、

勝利の帰還をするのでしょう。

 

 

妄想だけで親の死に恐れを抱いていた私は、

死は自然のもので、残されたものは

寂しさはあるけど、それでも生きているうちに

やれることをやれたら、後悔もないものだ、

ということ。

 

 

残された親を思うと不憫だし、

かわいそうだと思うと、せつな過ぎて、

悩みの一つも増えそうにもなりますが、

父の悲しみや寂しさは父のもの。

父が背負うべきもの。

 

 

悲しい感情まで貰う必要もなく、

それよりも現実的に、どうしていくか?

ということを考えて、残された父を

現実的に支える方法を考えて

行動していくことのほうが大切なのです。

 

 

昨日は初七日で、近しい人や近所の人が

再び供養に来てくださいました。

そしてまた、母の思い出話や

肉体を離れた時などの話をして

母のことを思い出していました。

 

 

今回、姪っ子には本当に本当に救われました。

彼女がいなかったら、私は

心折れていたかもしれません。

寂しさとかではなく、やることが多すぎて。

 

 

姪がこんなことをポツリと言いました。

「日本の仏教はキリスト教のように、

たった一回の告別式とかじゃなくてよかった。

もし、一回で終わったら、寂しすぎるもの。

何回もこうして供養できるなんていいなと思って」

 

 

それを聞いた私は反省です。

田舎の葬儀はやること満載で

面倒なことが多いな・・・なんて思っていましたが、

しかし、今回、こうして七日ごとにやる

儀式があるからこそ、少しずつ少しずつ

亡くなった人に対しても心の整理を付けていくのだな、

ということを実感しました。

 

 

精神世界を知ると、死はこわいものではなく、

むしろ、ひと足先に旅立った母を羨ましく

思うくらいです。だって、時空を超えて

あちこちに瞬間移動、そして

身体が痛いだの腰が痛いだのリウマチがひどいだの、

心が痛いとかそんなことは一切になく

喜びに満ちているのですから。

 

 

ハッキリ言って、生きている方が大変なのです。

 

 

結局、私は、母が楽しければいいのです。

そして、仏になり、あちらの世界に戻るのに、

供養するのは、お世話になった生きている者の務め。

それくらいは、骨折れることなく

やり遂げようと思いました。

 

 

帰りに、父から姪に、通帳が渡されました。

母が、姪が生まれたときにコツコツと

少しずつお金をためていたようです。

3000円の時もあり、2万円の時もあり、

14年にも渡り、貯めてててくれて、

姪にとっては大金が渡されました。

 

 

私は、母が亡くなってから

母の偉大さを知りました。

そして、本当に尊敬の念がわき、

今では一番尊敬している人になりました。

生きているうちにそう思えたら

よかったのですが、ま、それも

タイミング、ということで。

 

 

 

最後に・・・

ひとつわかったことは、

人は最後の最後の天に戻る時、

誰もが残された者たちに対して

教師になるのだ、ということ。

 

 

どんな利己的な歩みをした人であろうと、

どんな愛情に満ちた善人であろうと、

すべての人は、残された人々に何かを

教えてくれるのだな、ということ。

 

 

残されたものはそれを胸に、

前を向いて歩む。

過去を思うのはたまに、

そして少しの時間・・・

その後また前を向いて歩む。

 

 

どなたかを亡くして悲しんでいる方に

見て欲しいYouTubeです。

10年前から大好きな動画のひとつです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

11月19日のLINEブログは

●初七日だけど・・・

 

 

 

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