「親子で聞く誕生学」から映画上映会をみてよかった。
「誕生学」は午前中だけのプログラムだったので。
生まれてくるのは赤ちゃんであり、子どもなんだけど、誕生学の講師の方が、
「命」
という言葉を新鮮な使い方をなさっていて、赤ちゃんよりもわが子よりも、
もっと尊び、守らなければならない、大切なもの、自分の子他人の子という堺も取り払って、
みんなに愛され待ち望まれる価値のある存在、という響きがあった。
4組の夫婦の物語のまえに、
いろんな子どもたちにうまれる前の記憶について話してもらうところがあって、
出てくる時がんばった、という男の子の踏ん張っている顔が印象的だった。
また、
空から見ていて、一番さみしそうな女の人がいて、この人のところに行って幸せにしてあげようと思った、
という男の子。
話は前後するけど、誕生学でお母さんの命の場所のなかで赤ちゃんを守るためにあたたかい水があって、
その水が汚れたら赤ちゃんは水を飲んできれいなおしっこにしている、
という話を聞いた時、
ヱヴァンゲリヲンのLCLだ!
と閃きましたよ。ヱヴァンゲリヲンに搭乗するパイロットがまだ幼い母親のいない子どもなのは、
子宮の中の子どもとして、エヴァと一体化するためだからですよね。LCLが羊水って誰でも気づいていたことかもしれないけれど、私はきょう気づいた(笑)。
母親にきょうだいの中で自分だけが差別され虐待されていたことを忘れられない妊婦。お母さんは中3で家を出て行ったきりであっていない。
母親にどうして愛されなかったのか、悩んで選択した職業は助産師でした。
夫も親との良好な関係に恵まれたとは言えず、父親になる実感がもてないと繰り返します。
そのふたりが主となり、
間にほかの3組の夫婦とそのあいだにやってきた(来なかった)命が描かれます。
椿の花のアップリケが愛らしい骨壷に入っているのは、
出産予定日の朝に突然心臓が止まった生まれてくるはずだった娘でした。
どれほどの残酷さだろうと思った。
この映画に出てくる夫婦は実在して、本人に語ってもらう形なのです。
このままお腹の中に椿を入れて一体化していたいー。
泣いて訴える妻に夫は、落ち着いた頃をみて、椿を抱きしめてあげよう、といいます。
なんていい言葉をかけるんだろう!
私がかけられたのは、
「はやく処理しないとお腹の中で腐った魚みたいになって子宮の予後にもよくない」
という医者の言葉と、
「5ヶ月でよかったじゃないか、生まれて5歳で死んだらもっと辛いんだ」
と火葬場の帰りに言い放った元の夫の言葉ですね。
思い出して、
どうして私はもっと優しい言葉をかけられなかったんだろう、
と思い、
ここが大事だが、
私は優しい言葉をかけられるべき人間なのに!
と思ったですよ。
いつのまにか自分は暖かい優しい言葉を受け取る価値のある存在だ、
と思えるようになっていたんです。
当時は心ない言葉を受けるたびに自分はそうされても仕方のない人間だとどこかで諦めていたのに。
椿ちゃんのお骨をあやすように抱いて、ひだまりのなかで親子三人でいる、その絵もよかった。
流産や死産は体験したものでなければわからないのですが、
どんな世界にも差別と偏見があるように、
悲しいことですが、流産と死産のあいだにも、
不妊と不育(妊娠するが出産に至らないで流産死産を繰り返す)の間にも、
深い溝があるのが現状です。
私の中にも死産した時のことだけがくっきり残っていて、流産した時のことはいろいろあって忘れたくて忘れたのかもしれないが、
淡くなってしまっている。
映画の中にも不妊治療を9年続けて、年齢的に子どもを持つことを諦めた女性が登場します。
最初の3年はやってくる命を待っているのが楽しみでしかなかったのに、
弟夫婦に子どもが授かったことで焦燥感や置いて行かれた気持ち、自分は女性失格なんじゃないかと追いつめられていきます。
映画の最後で彼女は自分の経験を話して、より患者さんに寄り添った医療スタッフを育成することを、
産む。
ことにかえて生き生きと美しくなっていました。いまでも子どもを産むのは夢です、と言いながら。
先天性の重い病気をもった赤ちゃんとの一年を、
日々がんばっている子どもからさまざまなものをもらっていると感じる夫婦。
映画のポスターの夫婦がそうでした。
「ブラックジャックによろしく」で長い不妊治療の末に授かった双子が、
未熟児で弟くんが心臓に障害があるとわかった時のエピソードを思い出しました。
夫婦は悩み苦しみ、一時は赤ちゃんの親であることを放棄してしまいます。
それが最初からこの夫婦にはなかった。
生まれてきた命をみた瞬間に、ここに来てくれてありがとう、と思ったという気持ちがよくわかります。
私は生まれて2年くらいは半信半疑で、特にハイハイもしない、寝てばかりいる時期は、
死んでいるんじゃ?
と不安になることがよくありました。
やはり5ヶ月での死産は自分で思っていた以上のダメージだったらしく、
いまだに「5」がダメです。
不妊治療が長くなった女性が「卵」というだけで辛い気持ちになり鶏卵もイクラとかタラコとかすべての卵を見たくないと思ってしまった、
というのを本で読み、その時はピンとこなかったのですが、
その後子どもが生まれて10歳になっても、
「5ヶ月」には屈託を持たざるを得ない。
前は気にしすぎだとか、それこそ、でもいま子どもがいるじゃない、と誤魔化そうとしてきた感情ですが、
いまは当然だ悲しかった気持ちを思い出してもいいんだと思う。
そういうお母さんもいるのが当たり前だといまは過去の自分に肯定的です(笑)。
よしながふみの「きのう何食べた?7」のなかで、
筧さん(シロさん)の買い物分け合い仲間の50歳代と思われる佳代子さんが、
ずっと同棲していてダブルインカムノーキッズで行くつもりだった娘が妊娠して、
産むことに決めたことを喜びながら、
「あたしがおばーちゃんかあ…」
とつぶやき、
けっこう深刻な話をさらっとします。
不妊治療してやっとできた子が死産しちゃって、子どもを持つのを諦めた時に偶然できたのがミチル(娘さん)だったからさ、と。
帰り道で自分が何の気なしにさらっと流したことを思い返して一瞬動揺するシロさんでしたが、
どこの家にもなんかしらあるということだ、
と思い直します。
映画のなかで最初に出てきた夫婦は仲睦まじく、
絵に描いたような妊婦のしあわせに満ちているなあと思いきや、
しあわせであるはずの彼女は母親に風呂に沈められたり、生まれて来なければよかった、などと虐待を受けていて、
虐待の連鎖という言葉にふと不安がよぎったりしています。
どんな家庭にもどんなひとにも、みんななんかしらあるってことだな、
と思えたら、もっと世の中は住みやすくなるのかもしれないと思いました。
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