松本竣介展ー生誕100年
4/29には「竣介があるいた街、東京」と題して、川本三郎氏の講演があり、
講演を先に聴いたのですが、満員でしたね。
渋滞に遭い、少し遅れて入ったのですが、ラッキーにも前の方の席があいていて、
そこへするりと。私はこういうとき物怖じしない方です。
最初に松本竣介にアンリ・ルソーの影響を示唆され、
松本竣介が30歳に描いた自画像、
「立てる像」と、
アンリ・ルソーの自画像の
類似点を指摘され、
それまで画家の自画像は上半身だけだったのを全身描いている、
背景の雲、
街の佇まい、
などをあげ、
アンリ・ルソーもこの2、3年観る機会に恵まれてすきな画家なので、
橋や工場を好んで描き、アンリ・ルソーはパリの橋と川を、
松本竣介は東京の橋と川を描いたと興味深い講演はつづきます。
松本竣介は明治45年生まれ。たまたまですが、祖父と同年生まれです。
これもたまたまですが、竣介は12歳のときに病気で聴力を失いますが、祖父も同じ頃片耳を失聴しています。
北上川で水泳をやりすぎたせいですけどね。
竣介は失聴をきっかけとして画家を志し、盛岡中学を3年で中退し、母に付き添われて先に上京していた兄を頼って上京。画家になるためです。
当時の中学はいまの大学くらいの感じでしょうか。祖父は小学校卒業で働きにでるところを、祖父の母がいわゆる後家の頑張りで高等小学まで出してもらったそうです。
ちなみに祖父より9歳下の祖母は4年生までしか通わせてもらえず、あとは弟妹の子守をしていたとか。
当時の地域格差をくっきり感じます(笑)。
東京は戦前は特に水の都市で、とホワイトボードに東京の地名が書かれ、
やがて若き画家となった竣介が住んでいたあたりは、
池袋モンパルナスと呼ばれ、おなじ西武線の立教大学の近くには乱歩が住んでいて、
乱歩も引っ越しが多かったが、戦前の東京のひとは借家住まいが一般的で、
家を建てるのはよっぽどお金持ちのすることで、
となって林芙美子の建てた家は立派で、彼女は流行作家だったから丘の上に家をたてました、
とか、
作家とお金と住んだ街の話がおかしくて、あちこちからクスクス笑いが。
尾崎翠の名前もあがり、うれしい。
西條八十の「東京行進曲」のヒットや、新宿東口に目立たないけど西條八十の像があるとか、
当時の東京のモダンな雰囲気と若き芸術家たちの肖像が浮かんでくるお話でした。
私は常設展の松本竣介の絵を、シャガールの影響?と勝手にとっていたので、
アンリ・ルソーの影響というお話を伺えたことは貴重でした。
一人合点な見方でもいいと思っていましたが、いやーそれはどうかなーとやっと気づいたというか。
川本三郎氏の講演では最後に10分延長させてもらって、と断りをいれ、
盛岡の街が好きなわけ、
を話されてこれはサービスもあったとは思いますが、おそらく盛岡市民率の高い聴衆、大喜びだ。
盛岡駅からの北上川のうつくしさ。街中を流れる川がこんなにうつくしいとは、とおっしゃり、
あとは、東北は秋田と弘前以外は、佐幕について負けた側だからね、と。
そのせいなのか、岩手や山形には文学者が多いが秋田には少ない。
たしかにー。
秋田美人、あきたこまち、と、なんとんなくおなじ東北のお隣なんだが、
負けっぱなしの感じがする岩手へのエール。秋田のひと、ごめんなさい。
福田パンをかってたべるのと、あしたは三陸鉄道にいきます、とおっしゃってお話は終わったのですが、
流暢なスラスラペラペラの話し方ではないはずなのに、90分間、もっと話してもっと教えて、の気持ちでした。
私に限らず、岩手県人は素直なので、
川本氏が見てくださいね、
と強調していた
トイレの絵をみんな口々におおこれだこれだ、
としっかり鑑賞したんでした。
川本氏のお話の中で、
「風景はただそこにあるものではなく、
誰かがそれを美しいと発見そていくもの」
(「武蔵野」国木田独歩)
という、
「風景の発見」という概念が印象に残っています。
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