清水義範さんの教育に関するエッセイなのですが、
タイトルが短篇集みたいで、一瞬、新書とみせかけて
じつは小説集だったりして、と妄想してしまいました。
そんなことはナイですが。
これも「教育を考えるヒント」なのですが、
長年、もやもやと思っていたあるCMについての文章が
ありました。
ハムのCMで、「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」というやつ。
私はこのCMがすきではなくて、というか、「わんぱく」と「たくましく」はまた
違う問題だろうというところにひっかかっていただけですが。
このCMが行儀が悪い子どもを許すきっかけになった、と言いたいわけではなくて、
このCMが評判がよかった、という背景にすでに子どもが多少行儀が悪くてもかまわない、
という風潮ができていたのではないか、という話につながっていくのです。
かといって、すべて昔はよかった、というわけではなくて、
よく聞かされる(読まされる)話に、昔の中学生(旧制中学なのだそうだ)は頭がよかった、学力があった、難しい哲学書を読んでいた、
というのがありますが、私も昔のひとがそう書くならそうなのか、と無批判にずっとそう信じていましたが、
それはおかしい。前の世代の文化や技術、知識を積み重ねてきたところにいまがあるので、昔の学生のほうが頭がよかった、学力があった、というのは時代の変化を認めたくないにすぎない、とあって(だいたいこういう内容で文章は違います)、
確かにそうだよなあと納得する私。
学力が落ちている、といっても、では頭の良さとはなんなのか。
昔の学生にくらべていまの学生の美的センスは格段に向上している、という例をあげて、頭の良さのなかみが変わってきているだけかもしれないという示唆をしています。
いまの良さを認めつつ、しかしそれでも、言葉づかいやノーアクセントについてはいかがなものか、と論じています。
私自身は歯切れよく話すというのが苦手で、そもそもはきはき話すことへの猛烈な照れというか、反発があって、たぶんこの感じ方は一生変わらないと思うですが、
目上の人に「お疲れ様でした」というのは敬語ではない、
というとらえ方には納得でした。
さすがに「ご苦労様」は偉そうだ、という感じはあって、でもほかにいい言葉も浮かばないので、
「お疲れ様でした」
を口にしていたのですが、
目上のひとは偉いひとなので、こんなことで疲れるわけがない、
という考えで、「おつかれさま」という言葉も敬意を表すには至らない、というわけです。そうか!
その場面にあわせて「勉強になりました」「ありがとうございました」と言うのが正解。
長年疑問に思っていたことだったので、これだけでもこの本を読んでよかった(笑)。
昔つとめていた会社で、本部の事務の人がかたくなに、誰に対しても(上司に対してさえも!)
「ごくろうさまです」
と言っていたのを思い出しましたが、あれはいったい…。
その上司が支店にきたときに、まったくあの人はいつもごくろうさまだ、と苦々しく言っていたのですが、
上司であっても、言葉遣いの間違いを正すのは難しいということでしょうか。
間違いというか、感覚的に変だ、と思うのですが。