めずらしく封切初日に観に行ったので、めずらしく、
ネタバレ注意***です。
映画館でびっくりしたいひとは読まないでね。
原作の「あしたのジョー」はみなさん、ご存知だと思うんですが、
原作よりおもしろい、と思った設定がありまして。
それは香里奈演じる、白木葉子お嬢様ですよ。
ちばてつやさんが「ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日」のなかで、
葉子という女性は理解できなかった、あれは梶原さん(原作者梶原一騎)の
世界だ、というようなことを書いていて、すごく共感しました。
「あしたのジョー」を最初に見ていたのは小学生のころですが、
小学生の子どもにとって、葉子お嬢様みたいなキャラクターは
理解に苦しみますよ。
「愛と誠」も毎週近所の床屋さんで読んでました。
早乙女愛は分かるんですよ。
文学少女でツルゲーネフの『初恋』をくりぬいて
投げナイフを入れている梶原一騎だなーって感じの
キャラクターもすきでした。
が、白木葉子…。
まだ少女にしかみえないのに、ものすごい
権力ととてつもないお金をもっていて、
なぜかあの力石がへいこらしている(ようにみえた)。
女王様キャラか?と思えばなぜか慈善事業にも
積極的だ。たしか「ノートルダムのせむし男」を
演じたんだとおもう。
なんのためにだ。
しかも丹下段平はお優しい葉子お嬢様をひきたてるために、
鞭うたれる役回りだ。ジョーじゃなくても言いたくなるだろう、
偽善者!!
私はいまではすっかり汚れちまった大人ですが、
子ども時代はもの凄く良心的で素直だったので、
葉子のやっていることのちぐはぐさにいつも
イラッとしていました。ジョーが葉子を嫌いなのが
小気味よく、
葉子が力石を従えている感じなのがすごくキライだった。
子どもですから、力石がすごく変な顔にみえていました。
(今はむしろふだん無表情なだけに感情が爆発したときの力石が
魅力的だと思える)その変な顔の力石よりどうみたってジョーの方が
カッコいいのに、なぜ、ジョーにツンケンして力石を贔屓するのか。
贔屓してはいるが、力石に恋してるって感じでもないんだぜ。
じゃあなんだ、この葉子と力石の関係って。
「あしたのジョー2」の葉子はあからさまにジョーに惚れてしまって
弱みをみせてしまうのでまだ分かるんだが、
力石が亡くなるまでの「あしたのジョー」の葉子は全然理解できないひとだった。
ちばてつやさんも葉子が分からないし、書いていると苦しいので、
ホッとしたい気持ちから原作にはない、八百屋の紀ちゃんを投入したと
書いているほどだ。
で、映画では葉子は幼い頃にドヤ街にいたことがあきらかにされています。
もちろん、これは高森朝雄(梶原一騎)の原作にはないことですが、
でもむしろ、それなら分かるわ~と思ったよ。
高飛車で高慢で、貧乏人を毛嫌いするお嬢様。
お嬢様のくせになんでボクシングの世界に首をつっこんだり、
試合を組んだりのことに夢中になるのか。
上品なはずなのに、妙に逞しいのはなぜ。
修羅場を潜り抜けてきた中年女みたいなふてぶてしささえ
ありますよね原作の葉子。
5、6歳のいかにもお嬢様然としたきれいなワンピースをきた
葉子がシスターに導かれて孤児院へ。
ドヤ街の孤児院の門のまえで、事故死したらしい(両親同時に
亡くなって孤児になった感じなので事故死だと思う)両親といっしょに
映った写真を大事そうに持っていると、
いきなりドヤ街の子どもたちに泥団子をなげつけられたり、
宝物の詰まったトランクをとりあげられたり。
そこからいまの葉子お嬢様になるまでの道筋はあきらかに
されないのだが、
おそらく、大富豪の白木氏が孤児院にいたみるからにドヤには場違いな
葉子を気に入って引き取ったか、
両親の結婚に大反対だったおじい様が、孫娘の存在を知って
孤児院に迎えに来たか(ちょっと「家なき娘」風味)。
稚い葉子はドヤの子どもたちの荒々しく貧しげな様子もドヤに
暮す人々もすべてが憎かったんだと思う。私をあの元の世界に返して!と
それだけを願ってじっと待っていたんだろう。
だがそこで過ごした歳月が葉子をタフな女にしたともいえる。
力石が少年院に入っていたのがそもそもなんでやねん、と思っていましたが、
この映画では新聞記者が葉子がドヤ街出身だという特ダネを掴んで、
それをネタに脅そうとしたか、なにかで暴力を振るったらしい。
で、ここまでは映画のはなしだが、さらに、
力石と葉子はどこで出逢ったのか?と考えてみたんです。
映画の力石はなんというか、美男なんですね。バタ臭い南国風の、
ちょっと茶目っけのある表情を浮かべることもあるんです。
時代から考えて、米兵とのハーフじゃないか?
(どんどん妄想)
きっと生まればかりの力石を育てきれない未婚の母のお母さんが
孤児院に預けたんじゃないか。それが葉子も預けられた孤児院…。
力石の方が年上にみえるので、たぶん、後から来てドヤにも孤児院にも
なじもうとしない葉子を庇うナイトのような存在、それが力石くんだったのでは…。
(ますます妄想)
しかし、葉子と力石のあいだにあったものは恋愛感情ではない。
庇護するものと庇護されるもの。葉子が白木財閥のお嬢様となってからは、
経済的に庇護するのは葉子の方だったはずだが、
映画の力石は葉子に対して、対等。それどころか、
ジョーに対する葉子の気持ちもズバッと言い当てて、
にっ、と笑ったりする。大人の余裕だ。
余裕と言えば、力石は最初、ジョーに対して常に
余裕の顔なんですね。
そこそこやるようだが、ぼくには及ぶまいよ、キミ?
って感じ。しかも美男だし。ジョー役の山下智久さんは
力石が華やかな雰囲気をまとっているに対して、
荒んでいる。つねに。
つねに暴れ、喧嘩を買い、というより、喧嘩を売られるのを
待っている感じがありありだ。
ドヤ街でも暴れ(丹下のおっちゃんをかばって立ちあがったようにも
みえるが、無銭飲食をしようとしていたのがチャラになったことを、
映画の中の食堂のおばちゃんが忘れても私は忘れていない)、
少年院でも暴れ、独房に放りこまれても暴れる機会があれば率先して
暴れる。取り抑える刑務官(でいいのか?)が、
ここを出て自由になりたいだろう?と諭そうとするんだが、
「自由?俺はいつだって自由だ!」
と叫ぶわけだ。全然羨ましくないですからその自由。
自由だ、自由だ!と叫びながら、
それは孤独だ、寂しい、という絶叫に聞こえるわけだ。
そこに登場したのが南国のカーロス・リベラと世界チャンピオンのホセ・メンドーサの
華やかさとお洒落でダンディな雰囲気をもあわせもつ、ハイブリッド力石。
秀逸な力石だった。
彼は暴れるジョーの内心を、お前の自由ってのはみさかいなしに暴れることかい?
と見透かすように言うわけだ。
力石は映画でもマンガでも品行方正に描かれているが、そんなやつが少年院で尊敬を
集められるものだろうか。潜り抜けた修羅場があったにちがいないよ。
しかしそこをぐっと堪えて大人な力石になったわけだ。
自分を捨てた両親が悪い、世間が悪い、社会が悪い、と世の中すべてに
拗ねているジョーの子どもっぽさを皮肉ったわけだ。
この時の戦いはジョーが力石の顎にジャブをお見舞いした以外は、
いいとこなしだったんだが、
灰色の毎日を送っている少年院生たちがふたりの闘いをじっと
見守っていたのが印象的だった。
少年院にくる連中とドヤ街にいるしかない住人は、一緒にしては失礼かもしれないが、
灰色で苦しみの多い日々のなかでヒーローを待っている、
という点で共通するものがあるのではないか。
新入りで生意気でけんかっ早いジョーのことを、少年院のささくれだった
連中が笑ったりからかうようなことを言いながらも、どことなく、
認めている感じがあって、少年院のシーンが映画の中でけっこう
長かったんですが、ここを丁寧にじっくり描いてくれてたのしめました。
まあ、豚に乗って大脱走、というのは映画では無理でしたけどね。
(それはこのストイックな映画には似合わない、という判断だったかもです。
なんでもかんでも原作通りにやれば原作に忠実というものでもないですしね)
ジョーと力石の出逢い、院での3R、そして最後の闘い。
どれもほんとうに見ごたえがありました。
パンフレットを読んだら、力石君役の伊勢谷友介さんはわかるんですが、
ジョー役の山下智久さんもこの映画のために身体を絞りに絞ったらしいです。
そのストイックさと絞られ、鍛え抜かれた本物の肉体がぶつかり合う。
てっきり、CGだと思った肋骨が飛び出た力石の計量シーン
(マンガでは「残酷だ」という声まで聞こえる骸骨まで皮一枚の力石)ですが、
ほんとうにその状態にまで痩せたんだそうです。計量シーンの翌日は
水分をとって一気に5kg増(笑)! だって計量の次のリングではあれ?
あの飛び出た肋骨は?やっぱりCGでした?と思うくらい抉れたような腹部が
引き締まった、程度になっているんですもん。
マンガのイメージが損なわれる、なんてことを言わずに
ぜひご覧くださいませーといいたい。
そんでもって今回の映画には紀ちゃんの出番はナイ。
八百屋の紀ちゃん。原作にはないが、アンチ葉子の
ちばさんが投入したちばキャラ。
ジョーもひそかに紀子をすきだったが、不器用なジョーには
去っていく紀ちゃんの背中を見ているしかできないのだった。
映画では、
テーマを二人の男の出逢いと闘い、に絞ってその
闘いの場面を徹底的に描いたのがよかったと思う。
マンモス西は出てくるんだけどね。
ちょっと濃いめの顔立ちで、
マンガの西より世慣れた感じの西だった。
原作のぐずな西も私はすきだった。
自分のなかにもあんなぐずでなにをやらせてもダメだ、
というところがあって、西が減量に耐えきれずうどんだったか
ラーメンをすすっているところをジョーに見つかる場面なんか、
ジョーより西の気持ちになってしまう。ちばさんも、西には
自分のなかのそういうところを重ね合わせた、と書いていて、
だから西には厚みがあるんだろうなあと思った。
でも、もちろん、西のダイエット失敗なんて出てこないけどね。
とにかく削いで削ぎ落して、あのマンガのもつ熱のいちばん熱いところを
描こうとしているのが伝わってきました。
それでいて、ドヤ街のようすも、泪橋のあたりも、丹下拳闘クラブも、
ほんとうに原作どおりのイメージだった。
ドヤ街の住人達をほんとうに丁寧にじっくり描いていて、
ジョーのまわりをうろつくあの子どもたちも昭和の子どもだった。
(どこからスカウトしてきたんだろう!というくらいのものだった)
そんでもって、なんとドヤ街の縄のれんのおかみが倍賞美津子だ。銜えタバコで、
段平がジョーへの「あしたのために」を書いているところを、
ふふん、という軽い笑みをうかべてみていたり、
ジョーが少年院から帰ってきたときは、二階からやっぱり
銜えタバコでみて、笑っていた。
倍賞美津子が出てくるとそれだけでうれしいので、
4シーン、見逃すひとは見逃すだろうが、私は見逃さなかったよ。
見逃さないでね。
倍賞美津子、エンドロールでは、香川照之、津川雅彦(葉子グランパ)の
つぎのラストスリーだったよ。
「あしたのジョー」は読んでいたし、アニメも観ていたので結末は知っていて、
力石の死のあとの11分をどう描くんだ?とハラハラしながら見ていましたが、
じつに「あした」に繋がる希望がみえるような終わらせ方で、
力石の死を乗り越えてドヤ街に舞い戻ってきたジョーが、
「あしたってやつを教えてくれよ」
と丹下のおっちゃん(香川照之さんがリアルだった!
首筋の後ろの皺まであった!)にいうところがまたよかった。
映画では原作にはないセリフもけっこうでてくるのですが、
それはけっして原作の香気を損なう物ではなく、
むしろ、梶原一騎が描きたかったのはこういうことじゃなかったのか、
と思ったりもしました。
ネタバレ満載でごめんなさい**