女の子が生まれたら、ピアノを習わせたかったという母の懇願を、
振り払うにはあまりに幼い頃に、ピアノのレッスンが始まった。
恐ろしい母。恐ろしいピアノ教師。恐ろしい土曜の午後、
塩の入ったココアの、絡みつく甘さ。
繰り返される土曜の午後を、私は恐れるあまりに、
ピアノに向かってしまう。恐ろしい母と知りながらも、
愛されたいと思ってしまう悪癖のように。
上達の速さは、母を大いに喜ばせた。コンクールでの受賞。
メダル。林立するトロフィー。母の狂奔。もっといいピアノを。
もっといいレッスンのためにと、転校を決めた母。
その終焉は、春の泥にまみれた手袋だった。
母は手を守るために、つねに白い手袋を嵌めることを命じていた。
従順な私は、全力で白い手袋を守ったのだが、
暴力を振るうことは戒められていたから、もろともに春の泥をしたたかに吸い取った。
蹂躙された手袋の埋葬。身体中の青痣を鏡にうつす夜。
凍りついた心を、母には見せず、受験を名目にピアノを捨てた。
泥にまみれた手袋を捨てたように。
ノエルが得意なのはピアノだけではない。
次から次に、率直かつ辛辣な言動でクラスを沸かせた。
私のように、軽いジャブのような揶揄を打つのではなく、
相手が打ちのめされる顔になるまで、言い募るという悪癖を持っていた。
それなのに、誰からも嫌われないどころか、
人気を集めてしまった。たまに指名されると(ノエルは居眠りの常習者だった)、
物凄い音をたてて立ち上がり(落下する教科書やノート、ペンシルケース)、
奇妙に説得力のある発言をした。褒められても、ノエルは、例の超然とした態度を崩さない。
褒められたら、ジョークでやり過ごすのが私だった。
それがバランスだ。目立ちすぎても、控え目すぎても、教室という水槽の中で生き抜くことは難しいのだから。
教室を自在に泳いでいるように見えただろう、
十四歳の私。
だが、ほんとうは恐怖に立ち竦んでいたのだ。