前回のブログの続きです。

 

 

私にとっての神は

まさに、

この大きな

神聖的な

愛に自分が

ありのままに

愛されている

安心感です。

 

そして、私がなぜ

キリスト教に惹か

クリスチャンになったかは

宗教の中で

キリスト教だけが

“神が罪を赦す”

はっきり聖書の中で

「もし人の罪を赦すなら、

あなたがた天の父も

あなたがたを

赦してくださいます」

(マタイによる

福音書6-14,15)

書かれていたからです。

 

 人を赦すことが

天の父から

赦されるための

条件であると

教えているのではなく、

事実はその逆です。

自分が天の父からどれほど

多くの罪を赦されたかを

知っているなら、

人も赦しましょう、

というのがその意味です。

 

 ここでいう罪は

前ブログにも書きましたが

 

 

“神から離れた

的外れの生き方”です。

それは噓偽り、見栄、

嫉妬、傲慢などです。

 

 私は、この的外れの

生き方や

罪深い自分に

苦しんでいて、

人間以外の

聖なるものからの

赦しを求めていた

のだと思います。

 

 

 また、私たち

人間は皆弱く、

罪を犯したくなくても、

罪を犯してしまう

事があります。

 

 

 聖書にも使徒パウロも

「わたしは

自分のしているこが

分かりません。

自分が望むことは

実行せず、

かえって憎んでいる

ことをするからです」

(ローマ7:15)と、

自らの体の内に

働いている罪によって

自分でしたくない事を

していると書いています。

 

 発達障害や精神疾患の

人は特に自らの体の内に

働いている罪に

強く支配されている

のかもしれません。

 私もこのことで

凄く苦しんでいました。

 

でも、

神様やイエス様は

そんな

発達障害者や

精神障害者を

見捨てて

らしゃいません。

 

 聖書にも今でいう

発達障害者や精神障害者は

「けがれた霊(=悪霊)に

つかれた人」として

出て来ます。

 

そのような人も

イエス様によって

癒されています。

 

 一例として

マタイによる福音書7章15節に

「主よ、息子を憐れんでください。

てんかんでひどく苦しんでいます。

度々火の中や水の中に倒れるのです」

17章18節 には

「  そして、イエスがお叱りになると

悪霊は出て行き、

そのとき子供はいやされた

書かれています。

 

 聖書には

“障害を神の

御業が現れるため“

ヨハネの福音書

9章2節と3節

『 弟子たちは

イエスに尋ねた。

「先生。この人が

盲目で生まれたのは、

だれが罪を

犯したからですか。

この人ですか。

両親ですか」

イエスは答えられた。

「この人が

罪を犯したのでもなく、

両親でもありません。

神のわざがこの人に

現れるためです」』

書かれています。

 

私は

この御言葉に

救われました。

 

私はクリスチャンではありますが、

信じるもの、救われたものは

人それぞれで良いと思います。

(私のブログを読んでキリスト教に

興味を持っていただけたら

一番嬉しいですがニコニコ )

 

 大切なのは

人の移りやすい愛より、

もっと大きくて、

どんなときも変わらない、

神聖であたたかな優しい、

アガペー(無償で不変)の

愛に頼り、

ありのままの自分が

そうした愛に

包まれている安心感が

どんな人にも

必要なのだと思います。

 

 発達障害の人だけでなく

どんな人にも

必要な

アガペーの

愛です🍀 

 

人の愛は親であっても、

夫婦間であっても、

兄弟姉妹間であっても、

恋人同士でも、

友達関係でも、

どうしても移ろいやすく、

時には傷つけ

傷つくものに

なってしまいます。

 

 人間は神様ではないので

アガペーの愛は

誰であってもできません。

でも人は

人にこのアガペーの愛を

求めがちです。

そして、ギャップに

傷ついてしまうのです。

 

 ですから、移ろいやすい

人の愛に頼るより、

もっと大きくて、

どんなときも変わらない、

神聖であたたかな

優しい

アガペーの愛に頼り、

ありのままの自分が

そうした愛に

包まれている安心感が

どんな人にも

必要なのだと思います。

 

image

  

 またアガペーの愛が

出来ないからと

言って落ち込んだり、

自分を責める

必要はないと思います。

 

 それが出来ないのが

人間であり、

人間らしく、

互い足りないものを

補いあったり、

支えあったり、

祈りあえる

のだと思います。

 

神様は一人一人を

高価で尊いと

愛されています。

 

 神様が一人一人を

全く同じではなく、

違うように造られたのは、

私たちを大量生産ではなく

一人一人を大切に

手づくりして

くださっている

からなのだと思います

 

  私たちに

その違いを大切に

互いに支えあい、

愛しあって

ほしいと

神様は

願っておられます

 

  それには、一人一人が

ありのままに神様の

アガペーの愛に

包まれているという

安心感を感じることが

大切だと思います。

 

  それを感じられないと

どうしても人に

アガペーの愛を求め

ギャップに傷ついたり、

傷つけてしまう

のだと思います。

 

 それが独占欲、

愛憎、嫉妬になり、

大きくなったものが

戦争です。

 キリスト教には

フランシスコの

平和の祈り

というのがあります。

 

 

私も好きな祈りで毎朝、

祈っています🍀

 

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