若き哲学者の主張に心から賛同…!(自粛問題について) | 歌謡曲(J-POP)のススメ

歌謡曲(J-POP)のススメ

音楽といっても数々あれど、歌謡曲ほど誰もが楽しめるジャンルは恐らく他にありません。このブログでは主に、歌謡曲最盛期と言われる70~80年代の作品紹介を通じて、その楽しさ・素晴らしさを少しでも伝えられればと思っています。リアルタイムで知らない若い世代の方もぜひ!

 皆さんは、『週刊文春』に連載中の「今週のバカ」というページをご存知でしょうか 書いているのは適菜収(てきな おさむ)という、まだ40歳手前の新進気鋭の作家(哲学者を自称することもアリ)で、小泉元総理のイメージ戦略に乗せられた支持層(=B層)に関する論考などで知られる人。このページ、毎度毎度、的を射た指摘でもって“バカ”を一刀両断してくれるのが実に爽快で、「文春」の中で私が一番読むのを楽しみにしている連載記事なのです

 ここで、「“バカ”とは、お前いったい何様のつもりだっ」と、もうそれだけで拒否反応を示す方がいるといけないので念のため補足しておくと、適菜氏の言うところの“バカ”とは、頭の善し悪しではなく、頓珍漢な振舞いをする輩とか、非常識人間のことを指していると思われます。あえて「今週のバカ」と扇情的なタイトルにしているのは、“芸のつかみ”のようなものなのでしょう。せっかくいい品物を揃えても、まずはお客さんに店に入って貰わんことには話が始まらん、というのと同じです(←ほんまかいな
)。

 それはともかく、先週発売された『週刊文春 2月12日号』の同ページに、“(歌詞の)自粛問題”に関する私の考えを代弁してくれる適菜氏の主張が掲載されました。タイトルは“クレーム社会と自粛バカ”。記事内容のうち、歌謡曲に関連する箇所のみ要約してみましょう。


○フジテレビがイスラム国事件の情勢に配慮して、深夜アニメ「暗殺教室」の放送を自粛した。また、テレビ朝日のミュージックステーションでは、KAT-TUNの新曲「Dead or Alive(死ぬか生きるか)」の披露を中止。ロックバンド”凜として時雨”には、歌詞の”諸刃のナイフ”を”諸刃のフェイク(←意味不明)”に変更して歌わせた。このロックバンドは、ツイッターで歌詞変更の経緯を説明していたが、ここまでやると逆にテロに便乗した売名(話題作り)に見えてくる。

○こうした自粛は、いったい誰に対する何の配慮なのか?要するに、「こんなときに不謹慎だ」と騒ぎ立てるクレーマーに対する配慮なのだろうが、くだらない。

○クレーマーが暴走するのは成功体験が忘れられないからであり、社会が“自粛”などという愚かな対応で甘やかすから増長するのだ。クレーマーにも毅然とした対応を取るべきなのに、メディアが相変わらず”触らぬ神に祟りなし”状態なのは一体どういうわけか。


  …だいたいこんな感じです。上の要約の中で、“凜として時雨”が売名意図で歌詞変更の説明をした…というのは、さすがの適菜氏もちょっと勘ぐりすぎかなぁと思うのですが、”配慮”の解釈とクレーマーへの対処に関しては私の考えとまったく同じで、意を強くした次第です。もちろん、今回のイスラム国の一件については、本当に気の毒な結果になってしまったと私も痛ましく思っているんですよ(と同時に、危険を十分に承知で自ら行ったのだからやむを得ない結果だとも)。でも、その気持ちをアニメや歌を“自粛”する恰好で示すのは、ハッキリ言って頓珍漢。完全にやり方が間違ってます。なぜかと言うと、そのアニメや歌はイスラム国の一件を揶揄する意図で製作されたものではないから。ましてや、そのイスラム国の一件を笠に着てガタガタ騒ぐような連中を、先回りして牽制しようなんて愚の骨頂、筋違いの配慮もいいところではありませんか。どうせそんな連中の大部分は、高みから他人の揚げ足をとって優越感を味わいたいゲスな輩なんですから、存在自体を無視する(=おそらくクレーマーが一番嫌がる仕打ちでしょうね)くらいがちょうどいいのです

 さて、ここらで血圧が20くらい上がっちゃったのでちょっと深呼吸して…、っと
。このブログは歌謡曲がテーマなので、もう少し歌謡曲的な観点から、私の考えを補足しておきたいと思います。「文春」の記事の中で、“テレビ局が歌詞を変更させて歌わせた”という点に、“マスコミの傲慢さ”のようなものが見え隠れして、何とも言えないイヤ~な気分がするのは私だけでしょうか… 歌謡曲の詞に、言葉に込めた意味や制作意図が厳然としてある以上、例えば車の部品を交換するようにそうそう簡単に変えられるものではないと思うのですが。

 ここで頭に浮かぶのは、森進一が「おふくろさん」の冒頭に無断で“バース”と呼ばれる短い楽曲を付けて歌ったことに、作詞家の川内康範センセが激怒して大バトルに発展した一件です
。この時の川内センセの心情や怒った理由については詳細を知る由もありませんが、フォーク界の重鎮として知られる高田渡が、「『生活の柄』という放送禁止歌の中の“浮浪者”というフレーズを“ホームレス”に変えて歌ってくれ」と言われたのに対して厳しい口調で言い放った次の言葉の中に、重要なヒントが隠されているような気がします

「絶対にそれはない。歌とはそんなものじゃない。もし言葉を言い換えたならその瞬間に、この歌は意味をすべて失う。だったら僕はもう歌わない。」

 そこに見えてくるのは、
アーティストとして揺るぎのない矜恃、そして歌謡曲の詞は作詞家にとっては“芸術作品”であるという当たり前の事実です。言い換えると、“油絵”や“書”として完成された作品に、作者以外の第三者が勝手に筆を入れることがあり得ないのと同じことが“歌謡曲”でも成立するということ。歌謡曲が“なまじ大衆向け”の文化だったりするもんだから、あなたその辺を軽んじてやしませんか…ってな話です。

 それにつけても、テレビ局から歌詞を変えて歌うように言われて、それに従った件のロックバンド(特に作詞作曲のTK(北嶋徹)
)には、自分の芸術作品にもっとプライドを持って、それこそ“凜とした”態度をとって欲しかったなぁ…というのは、さすがに無理な注文でしょうか(ま、強者の立場から自粛を強要したテレビ局がみーんな悪いんですが)。

 最後に、作品自体には何も罪はない
という意味を込めつつ、「Dead or Alive」(KAT-TUN)と「Who What Who What」(凜として時雨)のYouTubeを載せておきますそれでは、今回の記事はこんなところでおしまい またお逢いしましょう~

【参考文献】
「週刊文春 平成27年2月12日号」(2014、文藝春秋)
「別冊宝島1499 流行り歌に隠されたタブー事件史」(2008、宝島社)
「封印歌謡大全」(石橋春海)(2007、三才ブックス)
「放送禁止歌」(森達也)(2003、光文社文庫)

「Dead or Alive」(KAT-TUN)

「Who What Who What」(凜として時雨)