【楽市・楽座】という生き方は、いわば、
シッカリと大地に根を張ったクリスマスツリーのような気がしています。

イエスさまの信仰と、お釈迦さまのダルマ(法)が出会う場所です。

楽市楽座物語

かくして、足かけ10年、

有象無象にボコボッコンにされたらいふすたいる君。  


いまでこそ、わたしが名づけ親になって、
らいふすたいる君と呼んでいるのですが、

当初は、ボッコボッコのボッコちゃん。


この世の地獄を見るには当然、かつ十分な仕打ちを
彼は受けたわけですが、その間、彼はわたしの意図とは
まったく異なる人生訓を身につけたようなのです。

わたしは宗教的見地から、彼に鉄槌を下したつもりだったのですが、
彼は、この世に対する楔の打ち方を見つけたようなのです。


それが【楽市楽座】というライフスタイルなんですね。


この構想を彼から聴いたとき、「したり」と思わず
手を打ってしまいました。

人々がそのライフスタイルを形成するのに難儀している現代、
【楽市楽座】というビジネスのカタチは、そのまま、現代人の生き方を
示してくれているよう思われたのです。


そこで、すでに本名では行動できなくなってしまった彼に、
すかさず、わたしは【らいふすたいる】君と命名したのです。


あらゆる個性(人種、性別、国、文化、・・・)に適用できる規範のような
気がしてなりません。

いままで、宗教的教義に忠実すぎたわたしの姿勢にも変更を迫るモノでした。


「縁は異なモノ」

恋愛に限りません。

哲学的・宗教的交わりのなかでも、
真実の愛は育まれてゆくモノなのです。


【楽市楽座】は、わたしにとって、そして彼にとってはなおさらのコト、
お釈迦さまが断食修行のはてに得た「甘露」のようなモノだったのです。
らいふすたいる君の事例を通して、
「正しい信仰とは何か?」

このブログの読者には、
いささかの理解が得られたのではないでしょうか?


少なくとも、私とらいふすたいる君には、
いま、「信仰」を共有する絆(きずな)が
生まれ、育まれています。

宗教の教義や、その修行方法については、
彼にくらべれば、私は大先輩です。

しかし、そんなコトはもう、どうでもいいんです。


彼はわたしによって、いのちを救われたと思ってきたでしょう。

でも、私には、彼との縁がなければ、自分の信仰の正しさを

証明する機会はなかったのだし、いま、こうやって、

彼の門出を祝福できるのも、私たちの祖父母の恩恵、
そして、何よりも神仏への信仰の賜物だと感謝の日々をおくっています。


らいふすたいる君のビジネスの成功を祈って、
彼の後見人としてのつとめを果たしてゆきたいと思います。