和田家文書の中から、面白いと思ったものを私なりに現代語訳して紹介しています。


伊達政宗の命によって安東船をモデルに作られた遣欧船サンウアンパプチスタ号が月浦から出航。


‥のつづきです。





船の名は燦赴安波扶持巣多(サンフアンバブチスタ)号。
船長 山口与市、スペイン遣日大使セパスチャン・ビスカイノ、江戸修道院ベアト・ルイス・ソテロ等、以下180人余りを乗せ、慶長18年(1613年)9月15日、陸奥月の輪のかかる満月が西山に沈む早朝、月浦を出港しました。


慶長18年(1613年)、スペイン領のアカプルコ湾に着きました。

サンフアンバブチスタ号には秋田実季が特別に乗せた者がいました。そのことを知っていたは伊達政宗だけでした。

彼は秋田実季から命じられ、港を治めている火内彦次郎といいました。

彼は古い阿毎氏の時代から、安倍氏・安東氏、そして現在の実季まで続く昔からの重臣で、山靼に赴くこと5回に及ぶ人物でした。彼はローマ語を理解し、ローマ文字を読める人でした。


慶長19年(1614年)5月3日、彦次郎は遣欧船船長 山口与市と共にせずアカプルコに残りました。パナマ地峡の古跡を視察するよう秋田実季の密命を受けていたのでした。


伊達の山口与市は(乗組員の中から)30人を選んで、天正19年5月3日にサン・フアン・デ・ウルフ港を出ました。大海を渡り、9月18日ソテロの故郷セビリアに到着しました。ソテロが故郷の地を踏んだのは15年ぶりでした。

9月24日には山口与市はセビリア主長に伊達政宗の書簡を贈り、一行は12月24日、雪のマドリードを見たのでした。



(和田家文書コレクション 丑寅風土記 第全六ノ六より)




前回の出航日は6月7日で違いますが、そのまま載せました。


原文には「イスパニアなるアカプルコ」とあるので単純に「スペインにあるアカプルコ」だと思ったのですが、地図を見るとアカプルコってメキシコにあるんですね。(知らなかったわー😅)当時はスペイン領だったんですね。


山靼」とは、アジア大陸北部のアムール川流域から樺太のあたりを指すようです。


「30人を選んで天正‥」とありますが「慶長」ではないかと。誤写にしては字が全然違うので、うーん🧐と思いましたが、これも原文のまま載せました。


サン・フアン・デ・ウルフ港ってどこなのか見つけられませんでした。


ちなみにこの段の他に、サンフアンパプチスタ号の造船に用した材料の産地や船大工の出身地、構造、積荷など詳しくあったのですが、ここでは割愛させていただきました。

興味のある方はこちらで原文をご確認ください⬇️


和田家文書コレクション 丑寅風土記 第全六ノ六



せめて船の規模だけでもここに載せておきます。


横5間4尺(10.3m)、

長さ18間5尺(34.2m)、

高さ14間1寸5分(25.5m)。


大っきい‼️びっくりびっくりびっくり


こうなるとこの船ますます見たかったなぁラブ

ひろの温泉旅湯〜チューブさんの動画です。船の内部の様子が良くわかる素敵な動画です。


復元船 サンファンバウティスタ号




まだまだ続きます。


ご訪問ありがとうございますおすましスワン




※伊達政宗の遣欧船に関する投稿について出典元の紹介を間違えていました。


和田家文書コレクション 丑寅風土記 第66巻 第全六ノ六 より


‥に訂正させて頂きました。

大変失礼いたしました🙇‍♀️