僕はアニメ(特に命のやりとりを通して考えさせる、戦闘系作品)にも、『涙』や『気づき』を共有しづらいらしいです。
それで、せっかく薦めてくださったのに、観ても期待されるような感想をいつもお返しできなかったりします m(_ _)m
(↑基本、黙る)
最近、それらに共感できない理由が分かったかもしれない。
僕の人生こそが、アニメの設定みたいだからじゃない…?
(T▽T)
フィクションは、死ぬも、殺すも、そこに至る事情にも覚悟にも感情にも、リアルな痛みや恐怖は伴わない。
絶対的に安全で、かつ責任のない場所に居ながら楽しむ、いっときの擬似体験。
僕はノンフィクションの自分の人生で、いくつもの『本当のところ』を味わってしまった。
ただのエンターテイメントとしてでいいなら、アニメでも漫画でも普通に楽しく観れるんですよ💡
だけどそこに《『涙』や『気づき』への共感》を期待されると、反応に困ってしまうんだと思う。
言ってしまえば、
「すでに現実でお腹いっぱい」
なのかもしれないね。
(でもこれを打ち明けたことで、自分なりの感想は伝えやすくなりそうだよ💡)
(フリーレンは観るよ💡)
愛方が脱出を果たした5日後、2016年の今日。
愛方のストーカーだった元夫は、自ら命を絶ちました。
そうなることは、僕には最初から分かっていた。
これは関わる3人のうち、誰か1人が命を落とす物語。
その誰かは、愛方か僕であってはならなかった。
鬼にも鬼になった事情があるなんて、そんなの今さら創作から学ばなくたって、剥き出しの実体験で痛いほど知っている。
それでも、その上で、僕は鬼を斬ったのだ。
以下、昔の自分のブログから記事を転載します。
長文ですが、お時間が許すなら読んでいただけたらと思います。
『いいね』な内容ではないですが、よろしければ供養のつもりでいただけると嬉しいです。
(《鬼滅》を知る前に書いているからパクリじゃないよw)
ちなみに僕には迷いもブレも懺悔もないので、ご心配のフォローはなくて大丈夫ですよ(笑)。
『哀しい子供』
犯罪は犯罪です。
どのような背景がその人にあろうとも、ならぬことはならぬのであり、そこを許すという意味ではない、というのを前提に、この先をお読みいただけたらと思います。
愛方にとってストーカーであり、DV加害者であった元夫は、彼自身、かつての被害児でもありました。
彼の子供時代もまた、壮絶でした。
そして、そこに適切な救いの手が周囲の大人たちから差し伸べられたとも言い難かった。
いや、過酷な子供時代を過ごしても、ゆえに人に限りなく優しくできる人もいます。
だからここも「そんなものはその人個人の責任だ」と言ってしまえばそのとおりです。
それは分かっているのですが…。
元夫がしたことは間違いなく支離滅裂な、鬼の所業でした。
だけどそれは愛情を知らない彼の、無自覚な虐待・DVの連鎖でした。
彼は自分が悪いことをしているとは、あまりよく分かっていなかった。だからキョトンとしていた。
ある意味で、純粋でした。
彼は自分が生きにくさを抱えているという自覚もあまりなかった。
力で他人を捩じ伏せる方法を学んでいたから。
しかし力ある大人として生きるために何重にも着込んできた黒いコートを一枚ずつ剥がしていくと、真ん中に座っているのは、哀しい小さな子供でした。
膝を抱えて一人ぼっちで泣いている、小さな小さな哀しい子供…。
それは外側に纏ったものがあまりにも多すぎて、厚すぎて、元夫自身にも見えないほど深く暗いところにうずくまっていたのだけど。
戦っている最中から誰よりもその背景に心を寄せ、その心に心を寄せてきたのは、他でもない愛方と僕だったと思います。
そして愛方自身も機能不全の崩壊家庭の中で育った、かつての被虐待児でした。
嫌なのに、呼び合ってしまう。
嫌なのに、噛み合ってしまう。
この二人の子供時代に、周囲の大人から適切な救いの手が差し伸べられていたら…。
それぞれの地獄から救い出され、無条件の愛情を誰かひとりからでも受けられていたら…。
少なくともこの二人の間の事件は、最初から起こらないものだったのではないでしょうか。
生まれながらの悪人というのも、もしかしたらいるのかもしれません。
人から見たら犯罪者はみんなそう見えるかもしれない。
ごちゃごちゃ考えず、そう一刀両断しても構わないのかもしれない。
どうしたって犯した罪は罪、犯罪は犯罪なのだから。
生まれ育ちは言い訳にはならないのだから。
でも、被害者が謀らずも次世代の加害者になってしまう現実。
いきなり加害者としての評価から始まってしまう現実。
それはあまりにも哀しく思えて…。
繰り返しになりますが、機能不全の家庭に育ったからといって、すべての人がそういう人間に育つのではありません。
また反対に、加害者すべてがそのような複雑な家庭環境で育ったわけでもないでしょう。
ただ、虐待、DV、犯罪を減らしたいと思うのなら…
加害者が被害者だったうちに、
加害者が哀しい子供だったうちに、
その心に寄り添ってくれる大人にそばにいてほしかった。
見つけてあげてほしかった。
愛情を与えてあげてほしかった。
加害者は絶対悪で、被害者の目線だけで語られることが殆どの虐待・DV問題。
ですが、そういった道徳論のみでは、時として問題の根底を見失うのではないか…。
そう感じます。
次世代の虐待・DV、犯罪を減らすためにできること。
それはやはり、哀しい子供たちを増やさないこと。
哀しい子供のまま人知れず大人になるしかない人を、今、これ以上増やさないこと。
すべての子供たちに、誰かに確かに愛された記憶を…。
そして、自身が受けた暴力を他者に繰り返してしまう大人にこそ、罪のみを罰するのではなく、その心の核に何があるのかを読み解く機会を…。
それはひとつの大きな鍵になるのではないでしょうか。
だって愛方を虐待した母親もまた、その心を探れば、かつての哀しい子供だった彼女自身の記憶がそれをさせていたのですから…。
空に還ったすべての者たちが、どうか今、あたたかで穏やかな場所にいますように…。