今日は葵祭です。

 

葵祭は、天皇陛下の勅使の代役である近衛使代と随員が京都御所から下鴨神社と上賀茂神社へ御幣物と御祭文を奏上するための道のりの行列である「路頭の儀」と、実際の勅使である掌典職の掌典が祭文を奏上する「社頭の儀」があります。

 

しかし今年の葵祭は、疫病の蔓延を防ぐために、路頭の儀は中止となりました。

 

そして、斎王代も選ばれませんでした。

 

社頭の儀のみ、関係者のみで執り行われます。

 

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葵祭の起源は、飛鳥時代の欽明天皇のとき(「賀茂縁起」によると567年)に風雨がはげしく、五穀が実らなかったので、卜部伊吉若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであると。そこで4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭をかぶって駆競をすると、風雨はおさまり、五穀が実って民は安泰になったということからきています。

 

平安遷都によって賀茂社は山城の国の守護神となり、嵯峨天皇の第八皇女の有智子内親王が810年に賀茂の斎王として奉仕ししてから、葵祭は日本で最古で最大の祭りとなりました。

 

その後、応仁の乱(1467年)によって約200年もの間中絶しますが、1694年(元禄7年)の徳川時代、東山天皇と後水尾天皇の皇子で有職故実の神様といわれる零元法王の御世になって再興されました。徳川の家紋は三つ葉葵ですが、徳川氏(もと松平氏)は賀茂神社の氏子であり浅からぬ関係があったといわれています。

 

近世では、1871年(明治4年)~1884年(明治17年)まで中絶。明治天皇の命によって1884年(明治17年)に葵祭(下鴨神社・上賀茂神社)、春日祭(春日大社)、岩清水祭(岩清水八幡宮)の三祭が厳粛に三勅祭の祭儀として執行されることとなり、現在にいたっています。

 

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ちなみに、源氏物語「葵」の巻にでてくる、葵の上と六条御息所の車争いの話は、光源氏は葵祭の斎院(桐壺帝の女三の宮)が祭りの前に賀茂川にて禊をする御禊の儀に奉仕する役ですので葵祭当日のことではない。葵祭の当日は紫の上と見物しています。←勘違いしている人多いです。

 

この御禊は現在では上賀茂神社御手洗川と下鴨神社の御手洗池にて隔年交代で行われていますが、今年は行なわれませんでした。

 

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中絶はあるものの、古式床しき国家的な神事であり祭礼です。

この先も末永くつづきますように。

 

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かなり詳細にまとめております。

 

葵祭 / 2012年下鴨神社 社頭の儀 & 2013年 京都御所 路頭の儀 上賀茂神社 社頭の儀

 

 

下鴨神社の社頭の儀

 

上賀茂神社の社頭の儀

京都御所にて

 

葵祭の日はこの帯と決めている。

 

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