黒川能 仕舞鑑賞•そして装束をみる / 2014年秋 しな織の里を訪ねる 庄内の旅 その9 のつづき

松ヶ岡開墾場へ目

明治維新の後、元庄内藩中家老の菅実秀(すげさねひで)は、代々の武士の家禄報酬が
なくなることを予測し、旧藩士のこの先の生活を考え、当時最大の輸出品であった生糸を
武士が自ら生産することを企画、それは桑畑の開墾と大規模な養蚕事業でした。
1871年(明治5年)、元庄内藩の武士3千人が刀を鍬に持ち替え、月山山麓の麓の原生林を
わずか58日で100余町歩(100ha)を開墾して桑畑をつくり、養蚕業を起こしました。
その蚕種が「松岡姫」です。

松ヶ岡の地は養蚕(松岡蚕種)、製糸(松岡製糸)、織り(松岡機業)と、絹織物の一環工程が
ひとつの場所に集約され開業した稀なところであり、日本最北の絹生産地でもあります。


1875年(明治8年)瓦葺上州島村式三階建の日本最大の蚕室が10棟がつくられました。
そのうち5棟は現在も残っていて開墾記念館とギャラリーやカフェとして利用されています。
1番蚕室が現在の松ヶ岡開墾記念館です。
屋根瓦には取り壊された鶴ヶ城のものがつかわれています。

上州島村式というのは、世界遺産に認定された「富岡製糸場と絹産業遺跡群」のひとつ
田島弥平旧宅の蚕室のこと。棟梁の高橋兼吉がこれを模してつくったといわれています。
田島弥平の「続養蚕新論」の中に明治7年に元庄内藩士22名が3ヶ月にわたって養蚕を
学んだという記述があることから、上州式の技術は庄内に伝承されていることがわかります。

長さ21間(37.8m)、奥行き5間(9m)という大蚕室は採光のために障子。
床には暖房のための埋薪(まいしん)の後があります。

刀から持ち替えた桑切り包丁

かつての養蚕室には、開墾の農具や資料そして養蚕に関する資料と道具の展示

さまざまな蚕種や生糸になる前のきびそ、びす、キャリアなど

松ヶ岡開墾場でつくられた松岡姫の原種は右側三段目

小石丸よりも小さいことに注目!


松ヶ岡の農作業衣。


松ヶ岡開墾場のなかにある観光案内所のお蚕さまの蔵では6月と9月に養蚕飼育を実施。
ここでつくられた繭は松岡製糸へ送られます。


2番蚕室はギャラリーとカフェになっています。

その名も荘内藩のカフェ侍

絹麺をいただきました♪ 養蚕室で食べるのも乙なもの。


4番蚕室は庄内農具館

中にはなぜかアフリカ、インドネシアの楽器がズラリ~♪
どちらも土に生きる農耕文化つながりなのだそう。
インドネシアの民俗音楽のジェゴクの拠点となっていて、さまざまな交流をもたれているとのこと。


松ヶ岡開墾場の本陣。庄内藩主3代酒井忠勝の高畑御殿を移築したものです。
茅葺き檜造りの平屋建て。

茅葺き屋根といえば、大麻がつかわれるのが特徴。

大麻博物館の高安淳一館長に教えていただきました。この白いところが大麻です!
神社の注連縄、横綱の注連縄、お盆の迎え火、送り火につかう麻幹、日本人の生活に
大麻は今も息づいています。


この時(11月16日)は晩秋で紅葉が楽しめたのですが、今は一面の雪景色だそうです。


屋根に石がのっているようなつくりのこの建物は、新微屋敷。
浪士組の清河八郎は庄内出身であり、新微組(しんちょうぐみ)は浪士組の流れ。
新微組の浪士のためにつくった屋敷を後に松ヶ岡開墾士のために移築したもの。


松ヶ岡開墾場…。
明治期の養蚕ということでは富岡製糸場と同じ時代なのですが、戊辰戦争での敗戦を経て、
武士の魂であった刀を鋤と鍬に持ちかえ、月山山麓の原生林を開墾し桑畑をつくった
庄内藩士たちの思いが今も閉じ込められているかのようなところでした。

庄内藩酒井氏の藩祖は酒井忠次。それ以後、領地替えすることなく明治維新を迎えます。
その間に領地替えの危機はありましたが、領民の嘆願運動によって回避しています。
戊辰戦争後も、転封撤回の嘆願運動と献金によって回避し、領民と一丸となって、
松ヶ岡開墾という殖産興業に務めることとなります。
桑畑の開墾と養蚕を提唱した、家老の菅実秀は菅原道真の子孫でもあり、荘内銀行、
松岡製糸工場をつくった事業家でもありました。ドラマが書けそうですね。


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