養蚕~近代製糸業と岡谷~岡谷の工女 / 岡谷蚕糸博物館 その1
のつづき
洋式の繰糸機は、1870年(明治3年)に前橋藩がスイス人ミューラーの指導のもとイタリア式繰糸機を導入したのが最初です。1871年(明治4年)江戸期の糸割符商人の豪商井筒屋は明治に小野組となり、小野善助がイタリー式の築地製糸場を開設しました。
1872年(明治5年)の富岡製糸場創業時に導入された300釜のフランス式繰糸機は岡谷蚕糸博物館にあります。
●フランス式繰糸器●
煮繭と繰糸を工女ひとりで行いう1釜2条繰りの撚り掛けはフランス式といわれる共撚り式。共撚り式とは、引き出した数本の繭糸を合わせて(集緒)2筋の隣同士の糸を互いに絡ませて糸の張り力を均衡させ抱き合わせるように撚りを掛け繰糸する方法のことです。
輸入時は大枠へ直接巻き取る直繰式だったものを、富岡製糸場の創業時には、湿度が高い日本に合わせて、小枠に巻き取ってから大枠に巻き返す再繰式に変更します。
1896年(明治29年)には4条繰り共撚式からケンネル式に転換し1942年(昭和17年)御法川式多条式に入れ替えるまでつかわれました。通常は新式の機械になるときは旧式のものは処分されてしまいますが、当時の富岡製糸場の経営者であった片倉工業は、フランス式繰糸機2釜を上諏訪(岡谷の諏訪湖対岸)にある片倉館の懐古館にて保存することにします。その後、岡谷蚕糸博物館へ寄贈。それ故に、フランスでも残っていないフランス式繰糸機が今日まで残っているのです。
富岡製糸場の創業時にフランスから導入した水分検査器。鶴亀と松竹梅という吉祥文様が西洋風に描かれていました。そうかこうなるのね…(・_・;)背面はフランスの田園風景でした。
生糸は重量で取引されますが、絹は吸水性が高いために、つくられるときの条件や湿度などによって重量が一定にならないことが問題となります。そのため生糸の取引にあたっては国が定めた一定の水分率を含んだ重量にされました。この水分率を「公定水分率」といいます。生糸は11% ←きもの文化検定1級問題向き![ひらめき電球](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/089.gif)
●諏訪式繰糸機●
台や枠だけでなく給水用の配管も含めてすべて木製、カランは竹筒、釜は陶器。体格の小さい日本女性の工女にあうようにサイズもコンパクトにできています。
配管は鉄製。三方になっている給蒸しカランによって左右の鍋に給蒸される仕組みだそう。
小野組の築地製糸場で操業していたイタリー式繰糸の技術は、1872年(明治5年)に上諏訪の深山田製糸場に導入されます。そして1874年(明治7年)に松代(現長野県千曲市)の六工社は富岡製糸場のフランス式繰糸の技術を導入しました。
1875年(明治8年)平野村(現岡谷市)の中山社の武居代次郎らは、深山田製糸場と六工社の技術を折衷し、技術改良につとめ、フランス式繰糸機とイタリー式繰糸機の折衷といえる、諏訪式繰糸機の開発に成功するのです。日本の風土と日本人の工女にあった、諏訪式繰糸機は急速に全国に普及し主流となります。そして日本の近代化に大きく貢献することになります。
フランス式とイタリー式の折衷である諏訪式を説明する前におさらいφ(.. )
諏訪式にいたるまでの流れです。
フランス式とイタリー式の大きな違いは糸の撚り掛けです。糸に取って撚りは重要!
生糸づくりは鍋に入った煮た繭から数本の糸を引き出して束ね(集緒)、
それをセリシンで粘着させ撚りをかけ1本の糸にします。
●イタリア式(イタリー式) 繰糸機●
1870年(明治3年)前橋藩→1871年(明治4年)築地製糸場→1872年(明治5年)深山田製糸場
繰糸はケンネル式。
数本引き出した繭糸を1つ穴の集緒器を透して数本をあわせて1筋の糸にし、その糸を鼓車を通過させて抱き合わせます。ケンネル式は抱合に優れ生産性が高いという利点があり。繭を煮る糸を繰るは分担で行なう煮繰分業方式。直接大枠に巻き取る直繰式。ケンネル式は抱合に優れ生産性が高いという利点があり。
●フランス式繰糸機●
1872年(明治5年)富岡製糸場→1874年(明治7年)六工社
繰糸は共撚り式。集緒した2筋の糸を互いに絡ませて糸の張り力を均衡させ抱き合わせるように繰糸する方法。繭を煮る糸を繰るを工女1人で行なう煮繰兼業方式。小枠に巻き取ってから大枠に巻き返す再繰式。共撚り式は2本の糸の張り力が均衡でないと切れてしまう、操作が難しい、生産性が悪い。
●諏訪式繰糸機●
1875年(明治8年)中山社
繰糸はケンネル式。(イタリア式)
繭を煮る糸を繰るを工女1人で行なう煮繰兼業方式。(フランス式)
小枠に巻き取ってから大枠に巻き返す再繰式。(フランス式)
イタリア式とフランス式の利点を取った仕組みづくりとなっています![!!](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/176.gif)
工女がひとりでも作業がしやすいよう考慮された構成の繰糸機は木製と陶器でつくられ、大きさはコンパクト。諏訪式繰糸機は2条繰りからその後条数を増やし昭和初期までつかわれ、日本の殖産興業に多大な貢献を果たすことになるのです。
※岡谷蚕糸博物館内での撮影及び「きものカンタービレ♪」への許可をいただいております。
学芸員の方、立ち会いのもと撮影させていただいております。
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多条繰糸機、その他、今も操業中!宮坂製糸所の動態展示は別記事で(^-^)/
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洋式の繰糸機は、1870年(明治3年)に前橋藩がスイス人ミューラーの指導のもとイタリア式繰糸機を導入したのが最初です。1871年(明治4年)江戸期の糸割符商人の豪商井筒屋は明治に小野組となり、小野善助がイタリー式の築地製糸場を開設しました。
1872年(明治5年)の富岡製糸場創業時に導入された300釜のフランス式繰糸機は岡谷蚕糸博物館にあります。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141005/07/wingofkimera/2a/35/j/o0450033813087904316.jpg?caw=800)
●フランス式繰糸器●
煮繭と繰糸を工女ひとりで行いう1釜2条繰りの撚り掛けはフランス式といわれる共撚り式。共撚り式とは、引き出した数本の繭糸を合わせて(集緒)2筋の隣同士の糸を互いに絡ませて糸の張り力を均衡させ抱き合わせるように撚りを掛け繰糸する方法のことです。
輸入時は大枠へ直接巻き取る直繰式だったものを、富岡製糸場の創業時には、湿度が高い日本に合わせて、小枠に巻き取ってから大枠に巻き返す再繰式に変更します。
1896年(明治29年)には4条繰り共撚式からケンネル式に転換し1942年(昭和17年)御法川式多条式に入れ替えるまでつかわれました。通常は新式の機械になるときは旧式のものは処分されてしまいますが、当時の富岡製糸場の経営者であった片倉工業は、フランス式繰糸機2釜を上諏訪(岡谷の諏訪湖対岸)にある片倉館の懐古館にて保存することにします。その後、岡谷蚕糸博物館へ寄贈。それ故に、フランスでも残っていないフランス式繰糸機が今日まで残っているのです。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141005/07/wingofkimera/6e/61/j/o0450033813087904317.jpg?caw=800)
富岡製糸場の創業時にフランスから導入した水分検査器。鶴亀と松竹梅という吉祥文様が西洋風に描かれていました。そうかこうなるのね…(・_・;)背面はフランスの田園風景でした。
生糸は重量で取引されますが、絹は吸水性が高いために、つくられるときの条件や湿度などによって重量が一定にならないことが問題となります。そのため生糸の取引にあたっては国が定めた一定の水分率を含んだ重量にされました。この水分率を「公定水分率」といいます。生糸は11% ←きもの文化検定1級問題向き
![ひらめき電球](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/089.gif)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141005/07/wingofkimera/a1/f9/j/o0450033813087913746.jpg?caw=800)
●諏訪式繰糸機●
台や枠だけでなく給水用の配管も含めてすべて木製、カランは竹筒、釜は陶器。体格の小さい日本女性の工女にあうようにサイズもコンパクトにできています。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141005/08/wingofkimera/18/45/j/o0450033813087939624.jpg?caw=800)
配管は鉄製。三方になっている給蒸しカランによって左右の鍋に給蒸される仕組みだそう。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141005/08/wingofkimera/56/4f/j/o0450033813087945071.jpg?caw=800)
小野組の築地製糸場で操業していたイタリー式繰糸の技術は、1872年(明治5年)に上諏訪の深山田製糸場に導入されます。そして1874年(明治7年)に松代(現長野県千曲市)の六工社は富岡製糸場のフランス式繰糸の技術を導入しました。
1875年(明治8年)平野村(現岡谷市)の中山社の武居代次郎らは、深山田製糸場と六工社の技術を折衷し、技術改良につとめ、フランス式繰糸機とイタリー式繰糸機の折衷といえる、諏訪式繰糸機の開発に成功するのです。日本の風土と日本人の工女にあった、諏訪式繰糸機は急速に全国に普及し主流となります。そして日本の近代化に大きく貢献することになります。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141005/08/wingofkimera/e1/9a/j/o0450033813087939969.jpg?caw=800)
フランス式とイタリー式の折衷である諏訪式を説明する前におさらいφ(.. )
諏訪式にいたるまでの流れです。
フランス式とイタリー式の大きな違いは糸の撚り掛けです。糸に取って撚りは重要!
生糸づくりは鍋に入った煮た繭から数本の糸を引き出して束ね(集緒)、
それをセリシンで粘着させ撚りをかけ1本の糸にします。
●イタリア式(イタリー式) 繰糸機●
1870年(明治3年)前橋藩→1871年(明治4年)築地製糸場→1872年(明治5年)深山田製糸場
繰糸はケンネル式。
数本引き出した繭糸を1つ穴の集緒器を透して数本をあわせて1筋の糸にし、その糸を鼓車を通過させて抱き合わせます。ケンネル式は抱合に優れ生産性が高いという利点があり。繭を煮る糸を繰るは分担で行なう煮繰分業方式。直接大枠に巻き取る直繰式。ケンネル式は抱合に優れ生産性が高いという利点があり。
●フランス式繰糸機●
1872年(明治5年)富岡製糸場→1874年(明治7年)六工社
繰糸は共撚り式。集緒した2筋の糸を互いに絡ませて糸の張り力を均衡させ抱き合わせるように繰糸する方法。繭を煮る糸を繰るを工女1人で行なう煮繰兼業方式。小枠に巻き取ってから大枠に巻き返す再繰式。共撚り式は2本の糸の張り力が均衡でないと切れてしまう、操作が難しい、生産性が悪い。
●諏訪式繰糸機●
1875年(明治8年)中山社
繰糸はケンネル式。(イタリア式)
繭を煮る糸を繰るを工女1人で行なう煮繰兼業方式。(フランス式)
小枠に巻き取ってから大枠に巻き返す再繰式。(フランス式)
イタリア式とフランス式の利点を取った仕組みづくりとなっています
![!!](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/176.gif)
工女がひとりでも作業がしやすいよう考慮された構成の繰糸機は木製と陶器でつくられ、大きさはコンパクト。諏訪式繰糸機は2条繰りからその後条数を増やし昭和初期までつかわれ、日本の殖産興業に多大な貢献を果たすことになるのです。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141005/09/wingofkimera/74/3b/j/o0450033913087975661.jpg?caw=800)
※岡谷蚕糸博物館内での撮影及び「きものカンタービレ♪」への許可をいただいております。
学芸員の方、立ち会いのもと撮影させていただいております。
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![](https://stat.ameba.jp/user_images/20140110/20/wingofkimera/f2/0c/p/o0032003212809849223.png?caw=800)