染織文化講座 富岡製糸場産地研修と草木染実習 その1 のつづき

世界遺産に登録され、注目される富岡製糸場。

前はひっそりとしていたそうですが、世界遺産に認定された今、連日ツアーが押し寄せる
一大観光地となりました\(゜□゜)/


1859年(安政6年)に横浜が開港されると、日本から大量の生糸と蚕種が輸出されるようになります。
当時ヨーロッパでは微粒子病といわれる蚕の病気が大流行し、養蚕は壊滅状態であったため、
大量の蚕種と生糸が必要とされたのです。

日本の製糸は座繰りによって行なわれていました。
座繰り製糸は養蚕農家ごとに蚕の品種や座繰りのやり方が違い、生産量も少なく、品質の向上
と生産能率をあげるために西洋式の機械と技術の導入が試みられます。

1870年(明治3年)に前橋、1871年(明治4年)に築地でイタリア式製糸法が導入。
1872年(明治5年)には日本ではじめての官営の製糸場である富岡製糸場が創業され、
300釜のフランス式繰糸機による当時世界で最大規模の生産様式の技術が導入されました。
これは明治政府による殖産興業の一環であり、これによって日本は外貨を得て富国強兵、
近代化の道を歩むこととなります。

※写真は染織文化講座2013年秋「養蚕と製糸」より

満開の百日紅の花が夏の終わりを告げていました。


●検査人館
生糸の検査をしたフランス人の技術者の住居だったところで、現在は管理事務所となっています。


●東置繭所
正門から真っ正面に見えるのは富岡製糸場のシンボルともいえる赤煉瓦の建物。
100m以上はある巨大な建物が繭の倉庫。
東置繭倉庫と西置繭倉庫あわせて2500石の繭の貯蔵が可能だったそうです。
これにギッシリ繭が入っていたとなるとスゴイですね…。

煉瓦はフランス人が指導し日本の瓦職人が焼いたもので、目地にはセメントでなく漆喰が
つかわれています。ガラスや蝶番はフランスから持ち込まれたものだそう。

木骨煉瓦づくりという、西洋の煉瓦積みの技と日本の材料をつかった木組みと瓦葺きの
屋根という和洋折衷の建造物です。

正面裏側の2階にはバルコニーがあります。


●乾燥場と煙突
繭を乾燥させるところ。
世界遺産認定の直前ともいえる2014年2月の大雪で半壊していました。


●ブリュナ館
明治政府によってフランスから招かれたポール•ブリュナと家族が暮らしていた住居。
高床式で回廊風のベランダという開放感あるコロニアル様式。

地下には煉瓦づくりの食料貯蔵庫が今もあります。←見学不可
ブリュナが飲んでいた赤ワイン、当時の日本人には血に見えたようで、フランス人は生き血を
飲む人種という誤解がありました。それによって富岡に工女としていくと生き血を吸われる
という噂が広まり、なかなか工女が集まらず、初代工場長の尾高惇忠の娘が率先して工女と
なることによって、ようやく集まったのだそうです。

ブリュナの帰国後は校舎や講堂としてつかわれたため改造されており当時の面影はないそう。


●女工館
各地から集まってきた工女に繰糸の技術を教えるためにやってきたフランス人女性教師の
ために建てられた廻廊様式のベランダ付きの建物。


「女工哀史」の影響から、工女はとてつもなく劣悪な環境での労働を強いられたかのように
思われていますが、「富岡日記」という横田英の回想録によると、当初は1日8時間労働で
週休1日、夏休み、冬休みもあり、お花見や夕涼みを楽しんだことが記されています。
日々の食事も恵まれていて、富岡工女の厚化粧といわれるほどオシャレもしていたそう。
売店ではフランスの香水や化粧品も売られていたそうで、流行の先端だったのかもしれません。
ちなみに1日で生糸4束取れる1等工女は赤い襷と高下駄が許され、年俸は25円。
ただし、その後民間に下げ渡され状況は都度変わります。
※写真は染織文化講座2013年秋「養蚕と製糸」より


1873年(明治6年)富岡製糸工場を昭憲皇后と英照皇太后が行啓された際の画。
荒井寛方◇「富岡製糸場行啓」聖徳記念絵画館壁画


1893年(明治27年)官営だった富岡製糸場は民間に払い下げられます。
その後、三井、原、片倉と変わりますが、戦時中も一環して製糸工場として稼動します。
片倉工業は、片倉市助が1873年(明治6年)岡谷市の自宅の庭で10人繰りの座繰り製糸
をはじめたことが嚆矢。後に国内外に64の製糸工場を経営する片倉財閥となります。
諏訪、岡谷地方が糸の都となった立役者のひとり。
絹の生産量の減少から、片倉工業富岡工場(富岡製糸場)は1987年(昭和62年)2月26日に
操業を停止します。

しかし操業停止した後も「貸さない、売らない、壊さない」の方針を貫き、莫大な予算をかけて
守り抜いたことによって、保存状態が保たれ、富岡製糸場は今日の世界遺産となりました。

固定資産税だけでも年間2000万、維持管理もコストを考えるよりも当時の工法にこだわり
年間維持費は1億円になることもあったとか…。
繰糸場内は操業停止時のまま保存され、当時の最新式であった繰糸機が設置されたまま
となっています。


ユネスコ世界遺産登録に向けて、2005年(平成17年)に富岡市に譲渡され今に至ります。

2014年(平成26年)6月21日にカタールの首都ドーハで審議された第38回世界遺産委員会
にて富岡製糸場と絹産業遺跡群が、世界遺産に認定されました。
国内の世界遺産としては18件目、文化遺産としては14件目、近代の産業遺産としては
国内ではじめてのことです。

※上毛新聞 号外より

生糸づくりの繰糸場につきましては別記事にて(^-^)/

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