妄想ゴロニャンういるす物語(375)大日本皇道立教会支援者 久邇宮朝彦親王③ | WingMakerのブログ

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皆々様方、ごきげんよう。

 

さて、前回までは「廷臣八十八卿列参事件の末裔・七卿落ち・天忠党支援者を深堀りする」

 

これらを紹介してきました。

 

今回からは

 

参考資料はコレの中からそれぞれを深堀りいたします。

 

中山忠親の家系図 | 系譜で辿る日本史

 

中山家(羽林家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~

 

大日本皇道立教会 - Wikipedia

 

これに名前が載っている人物達。

 

その子孫達は現在どうなっているのか?

 

見ていきましょう。

 


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◆4代 久邇宮邦昭王 3代朝融王の子
1929年生
久邇邦昭 - Wikipedia

久邇邦昭は、昭和4年(1929年)に東京で生まれ、学習院初等科から海軍兵学校を経て、学習院大学政治経済学部を卒業した。昭和22年(1947年)に連合国軍占領下で皇籍を離脱し、川崎汽船で取締役を務めた後、伊勢神宮の大宮司や神社本庁統理などを歴任した。雅楽を学ぶため武蔵野音楽大学に入学し、卒業している。香淳皇后の甥であり、明仁上皇の従兄に当たる。皇位継承問題が浮上する中、その存在が注目されることがある。
1944年

3001



1993年

3008




■妻  弘世正子   財閥弘世現の娘
1937年生

1957年

3011


 

3007



弘世現 - Wikipedia

日本の実業家、日本生命社長。同社の「中興の祖」と呼ばれた弘世助太郎の娘婿。

三井合名会社理事・成瀬隆蔵の六男として、東京市麴町区(現・東京都千代田区)に生まれる。成瀬家は二条関白藤原良基の末裔で、尾張犬山城の城主だった成瀬隼人正を先祖とする門閥である。隆蔵の長男の成瀬達は日本生命4代目社長、三男の成瀬雄吾は第一火災海上社長を務めた。
現は、初等科から高等科まで学習院に学び、1928年(昭和3年)東京帝国大学経済学部卒業後、三井物産に入社[3]。同年日本生命社長・弘世助太郎の婿養子となる。弘世家は嵯峨源氏の流れを汲むとされており、旧彦根藩の御用商人であった。

浅利慶太や石原慎太郎のスポンサーとなり、日生劇場が生まれている。 1983年から96年まで、松下幸之助の後任として伊勢神宮崇敬会第4代会長を務めた。また朝日放送、近畿日本鉄道、髙島屋などの取締役も担った。

源太郎 - 長男。日本生命元常務。44歳で死去。妻は松方正義の曾孫・信子。

晃嗣郎 - 源太郎の長男。三井史子(旧男爵松坂三井家三井高周(三井石油開発監査役)娘)の夫


●長男 久邇朝尊

久邇朝尊 - Wikipedia

三菱商事ファイナンシャルサービス株式会社アカウンティングセンター長に就任、2015年(平成27年)には同社監査役に就任した。2018年(平成30年)、株式会社メタルワン監査役に就任し、2021年(令和3年)6月まで務めた。2022年(令和4年)7月5日、自身の再従弟にあたる今上天皇の勅裁を得て、小松揮世久後任の伊勢神宮大宮司に就任した。同月、日本会議顧問に就任。


●二男 久邇邦晴 大手重機メーカー勤務。
●長女 久邇晃子 精神科医

 

3012

 

 



久邇宮邦昭王の娘

4000(4)

 


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『入江相政日記』侍従長

1972年6月21日
植さんと久邇家の御財政について話し合う。
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『入江相政日記』侍従長

1974年12月19日
久邇家のこといろいろ話す。
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『入江相政日記』侍従長

1976年12月16日
植さん来訪、久邇家の財政難のこと。
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『入江相政日記』侍従長

1980年6月26日
植さんに賜金を渡す。
久邇家、大変具合よくいっているとのこと。
よかった。
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『入江相政日記』侍従長

1982年3月10日
昭和天皇より、元宮内庁長官田島道治が久邇宮朝融王・徳川喜好・松平直鎮の神がかりをとめてくれたときのいきさつは、東本願寺問題の参考になりはしないかとの仰せ。

1982年3月12日
久邇宮朝融王の神がかりを田島元長官が取りしずめたのを参考にして東本願寺が何とかなるまいかとの昭和天皇の仰せにつき徳川侍従次長と相談。
今度のとはまったく性質が違うし、内藤君が一生懸命やっているから、もうしばらく様子を御覧になっていただきたいと申し上げる。

1982年3月16日
昭和天皇が、久邇宮朝融王を新興宗教から離したのは大協石油社長高橋真男が一緒に食事をしたりして懇談したから、東本願寺にも内藤の他にそのような人を見つけなければならないとおっしゃる。
「そんな人みつかりません」と申し上げたら、
「なんとしても見つけなければ」とおっしゃる。
「東伏見邦英さん〔良子皇后の弟〕さえお近づきになれないのだから」と申し上げたら、おわかりになった。

1982年6月24日
植さんに久邇宮家への賜金を渡す。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1983年6月23日
洋楽演奏会に久邇宮正子女王陪聴のこと。
大真協会のこともあり、〔久邇正子の信仰〕良子皇后との接触は避けねば。
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久邇宮 朝彦親王の祖先・子孫たち

 

応神天皇(誉田別尊)

稚渟毛二派皇子→

意富富杼王→

宇非王→

彦主人王→

継体天皇(男大迹王)→

欽明天皇(天国排開広庭尊)→

敏逹天皇(訳語田淳中倉太珠敷尊)

押坂彦人大兄皇子→

舒明天皇(息長足日広額尊)→

天智天皇(中大兄皇子)→

施基皇子→

光仁天皇(白壁王)→

桓武天皇(山部親王)→

嵯峨天皇(神野親王)→

仁明天皇(正良親王)→

光孝天皇(時康親王)→

宇多天皇(定省親王)→

醍醐天皇(敦仁親王)→

村上天皇(成明親王)→

円融天皇(守平親王)→

一条天皇(懐仁親王)→

後朱雀天皇(敦良親王)→

後三条天皇(尊仁親王)→

白河天皇(貞仁親王)→

堀河天皇(善仁親王)→

鳥羽天皇(宗仁親王)→

後白河天皇(雅仁親王)→

高倉天皇(憲仁親王)→

後鳥羽天皇(尊成親王)→

土御門天皇(為仁親王)→

後嵯峨天皇(邦仁親王)→

後深草天皇(久仁親王)→

伏見天皇(熙仁親王)→

後伏見天皇(胤仁親王)→

光厳天皇(量仁親王)→

崇光天皇(興仁親王)→

伏見宮 栄仁親王→

貞成親王(後崇光院)→

伏見宮 貞常親王→

伏見宮 邦高親王→

伏見宮 貞敦親王→

伏見宮 邦輔親王→

伏見宮 邦房親王→

伏見宮 貞清親王→

伏見宮 貞致親王→

伏見宮 邦永親王→

伏見宮 貞建親王→

伏見宮 貞頼親王→

伏見宮 邦敬親王→

伏見宮 邦家親王→

◎久邇宮 朝彦親王→

久邇宮 邦彦王→

久邇宮 朝融王→

久邇邦昭・伊勢神宮大宮司→

久邇朝尊・日本会議顧問

 

 

伏見宮 貞頼親王→

伏見宮 邦敬親王→

伏見宮 邦家親王→

◎久邇宮 朝彦親王→

久邇宮 邦彦王→

久邇宮 朝融王→

久邇邦昭・伊勢神宮大宮司→

久邇朝尊・日本会議顧問

 

ここの部分を更に深堀りすると・・・

 

伏見宮 貞頼親王→

妃:蓮華心院 鷹司昌子(父:関白 鷹司輔平)

妃:(父:大納言 松木宗美)

鷹司輔平 - Wikipedia

閑院宮直仁親王(東山天皇皇子)の第4王子。生母は長祥院(家女房)。五摂家のひとつ鷹司家の養子になり、第21代当主となる。以降鷹司家は皇別摂家となった。

 

伏見宮 邦敬親王→

妃:寿美君 一条輝子(父:関白 一条輝良)

一条輝良 - Wikipedia

江戸時代中期の公卿。一条道香の子として生まれる。明和8年(1771年)に内大臣、安永4年(1775年)には従一位に叙される。安永8年(1779年)には右大臣、天明7年(1787年)には左大臣に昇進。寛政3年(1791年)には関白となり、一条家19代当主としてその地位を固めた。江戸時代の公家社会において重要な役割を果たした人物である。

 

伏見宮 邦家親王→

伏見宮邦家親王 - Wikipedia

 

妃:鷹司景子(東山天皇玄孫)(父:関白 鷹司政熙)

女:堀内信子(父:堀内伊勢守嗣善)

女:信子(父:鳥居小路法眼経視)

鷹司政煕 - Wikipedia

父は閑院宮直仁親王(東山天皇皇子)の第四王子で、鷹司基輝の養子となって藤原姓鷹司家を継承した鷹司輔平。母は家女房。

兄妹に徳大寺実堅、昌子(伏見宮邦頼親王妃)、富子(有栖川宮織仁親王妃)、興姫(仙台藩主伊達斉村室)。正室は徳島藩主・蜂須賀重喜の娘・儀子。側室に豊岡斐子と井上梅。

光格天皇(現在の皇室の祖)は従兄

任子(第十三代将軍徳川家定室)

 

◎久邇宮 朝彦親王→

久邇宮朝彦親王 - Wikipedia

伊勢神宮祭主。神宮皇學館(現・皇學館大学)の創設者。伏見宮邦家親王の第4王子[1]。久邇宮初代当主。通称に中川宮(なかがわのみや)他多数。諱もたびたび改名している。香淳皇后(昭和天皇后)の祖父であり、明仁上皇の曽祖父、今上天皇の高祖父にあたる。

文久3年前半は長州藩を中心とした尊王攘夷派公卿が朝廷の主流だった。そして尊攘派の志士たちの朝廷工作活動は、いかに朝廷に幕府を制御させるかという点に目標が移っていた。それが大和行幸の詔だった。孝明天皇が大和に行幸し、その際に天皇自ら攘夷のための軍議を開き、それによって自動的に幕府から軍事権および施政権を取り返すという企てである。その上で勅許を待たずに条約を批准した幕府にこそ最も攘夷を実行すべき責任があり、当然取るべき責任を取らせようという算段でもあった。

公武合体派の領袖であった中川宮は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ、真木和泉らの画策によって「西国鎮撫使」として都から遠ざけられそうになった。しかし中川宮はこれを固辞し、政敵であり長州派の有力者のひとりだった大宰帥・有栖川宮熾仁親王にその役目を譲った。

即時攘夷は難しいと内心考えていた孝明天皇は三条実美らの尊攘過激派が勝手に大和行幸の詔を出すと、中川宮を呼び、よろしく対処せよと命じたため、「朝彦命脈あるかぎりはその説を斥け、佐幕の議を唱えん」と答えたという。孝明天皇から内意を得た中川宮は京都守護職を務める会津藩主松平容保、薩摩藩の高崎左太郎、前関白の近衛忠煕、左大臣二條斉敬らと謀り、八月十八未明に急遽参内し会津藩兵に御所の門を固めさせ、長州勢を追い払い、三条らの参内を禁ずる八月十八日の政変を断行した。

八月十八日の政変により長州派公卿と長州藩勢力が朝廷から駆逐される(七卿落ち)と、朝彦親王や関白二条斉敬は孝明天皇の信任を受けるが、これは同時に、下野した長州藩士や長州系尊攘志士たちの恨みを買うこととなり、「陰謀の宮」などと呼ばれるようになった。

 

久邇宮 邦彦王→

久邇宮邦彦王 - Wikipedia

陸軍大将

妃:島津俔子(父:薩摩藩十二代藩主 島津忠義)

島津忠義 - Wikipedia

第125代天皇明仁(上皇)の曾祖父、第126代天皇徳仁(今上天皇)の高祖父にあたる。

明治維新後は毛利敬親(長州藩主)、山内豊範(土佐藩主)、鍋島直大(肥前藩主)と協力して版籍奉還を進んで行なう。

正室:島津暐子(てるこ、1851年 - 1869年、島津斉彬の三女)

十女:正子(なおこ、1885年 - 1963年、徳川家正室)

十一女:為子(ためこ、1897年 - 1989年、徳川頼貞室)

島津斉彬 - Wikipedia

江戸時代後期から幕末にかけて活躍した薩摩藩主。斉興が家督を譲らず、お由羅騒動を経て嘉永4年(1851年)に藩主となる。富国強兵を目指し、洋式造船や反射炉建設などを推進。西郷隆盛や大久保利通を登用し、幕政改革にも積極的に関与。安政5年(1858年)、井伊直弼と将軍継嗣問題で対立。藩兵を率いての上洛を計画中に急死した。死因はコレラとされるが、陰謀説もある。

徳川家正 - Wikipedia

徳川家正

東京府で生まれ、東京帝国大学法科大学を卒業後、外務省に入省。シドニー総領事、カナダ公使、トルコ大使を歴任し、1937年(昭和12年)に退官。父の死後、公爵を襲爵し貴族院議員となる。1946年(昭和21年)、最後の貴族院議長に就任し、貴族院と華族制度の廃止を見届けた。心臓病のため東京都で死去。正二位に叙され勲一等旭日大綬章を追贈される。妻は島津忠義の十女・正子で、天璋院の遺言によって結婚が決められた。長男が早世し、長女の子である恒孝を養子に迎え、後に徳川宗家第18代当主とした。

徳川頼貞 - Wikipedia

徳川頼貞

紀州徳川家第16代当主。音楽学者、政治家として活躍。西洋音楽を日本に紹介し、約2万点の楽譜を「南葵音楽文庫」として和歌山県立図書館に寄託。貴族院や参議院議員として外交に貢献。ユネスコ国会議員連盟会長などを歴任し、日本のユネスコ加盟に尽力。フィリピンの竹製パイプオルガンの修復にも貢献した。1954年に61歳で死去。葬儀は聖イグナチオ教会で行われ、遺骨は和歌山藩主徳川家墓所に埋葬された。

 

久邇宮 朝融王→

久邇宮朝融王 - Wikipedia

久邇宮朝融王 に対する画像結果

第1王子:邦昭王(1929年3月25日 - ) - 川崎汽船常務取締役、伊勢神宮大宮司。

第3王子:朝宏王(1944年10月7日[18] - ) - 日立製作所勤務

妃:知子女王(父:伏見宮 博恭王)

伏見宮博恭王 - Wikipedia

伏見宮博恭王 に対する画像結果

海軍軍人。

 

久邇邦昭・伊勢神宮大宮司→

久邇邦昭 - Wikipedia

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川崎汽船取締役・ 伊勢神宮大宮司 ・神社本庁統理 ・霞会館理事長

妻:弘世正子1937-(父:日本生命名誉会長 弘世現)

弘世現 - Wikipedia

日本の実業家、日本生命社長。同社の「中興の祖」と呼ばれた弘世助太郎の娘婿。

三井合名会社理事・成瀬隆蔵の六男として、東京市麴町区(現・東京都千代田区)に生まれる[1]。成瀬家は二条関白藤原良基の末裔で、尾張犬山城の城主だった成瀬隼人正を先祖とする門閥である。隆蔵の長男の成瀬達は日本生命4代目社長[2]、三男の成瀬雄吾は第一火災海上社長を務めた。

浅利慶太や石原慎太郎のスポンサーとなり、日生劇場が生まれている。

源太郎 - 長男。日本生命元常務。44歳で死去。妻は松方正義の曾孫・信子。

弘世助太郎 - Wikipedia

日本生命取締役に就任した。助太郎は山口銀行の支配人・監査役をつとめ、その後関西信託や三和銀行の取締役に就任し、山口財閥とは極めて密接な関係にあった。1928年(昭和3年)12月29日日本生命社長に就任し、1936年(昭和11年)に亡くなるまで、その任に当たった。

 

久邇朝尊・株式会社メタルワン監査役、伊勢神宮大宮司、神宮司庁代表役員、日本会議顧問

久邇朝尊 - Wikipedia

久邇朝尊 に対する画像結果

曾祖父:久邇宮邦彦王(皇族、陸軍大将)

曾祖母:邦彦王妃俔子(皇族、薩摩藩主島津忠義8女) 

曾祖父:伏見宮博恭王(皇族、元帥、軍令部総長) 

曾祖母:博恭王妃経子(皇族、征夷大将軍徳川慶喜9女) 

祖父:久邇宮朝融王(皇族、海軍中将) 

祖母:知子女王(皇族) 

父:久邇邦昭(旧皇族、伊勢神宮大宮司、神社本庁統理)

 

妻:久邇良子(東京学芸大学教授) - 山本誠長女

久邇良子 - Wikipedia