妄想ゴロニャンういるす物語(374)大日本皇道立教会支援者 久邇宮朝彦親王② | WingMakerのブログ

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皆々様方、ごきげんよう。

 

さて、前回までは「廷臣八十八卿列参事件の末裔・七卿落ち・天忠党支援者を深堀りする」

 

これらを紹介してきました。

 

今回からは

 

参考資料はコレの中からそれぞれを深堀りいたします。

 

中山忠親の家系図 | 系譜で辿る日本史

 

中山家(羽林家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~

 

大日本皇道立教会 - Wikipedia

 

これに名前が載っている人物達。

 

その子孫達は現在どうなっているのか?

 

見ていきましょう。



1951年10月12日
昭和天皇◆米内光政も久邇宮朝融王は仕方がないと困ったが、本当に困った。
久邇宮俔子妃御自身〔朝融王の母〕も久邇宮家現状を十分御承知ないためにいろいろ仰せになるのではないか。
田島長官◆久邇宮俔子妃はおうちのお孫さんたちともあまり接触ないとのことであります。
昭和天皇◆照宮成子内親王に聞いたが、このあいだお子さん連れで久邇宮家を訪問したが、お子さん連れであるのにお子さんはちっとも出ておいででないし、久邇宮俔子妃も出てらっしゃいとも言われぬそうだ。
久邇さんの御家の風はどこかおかしい。

1951年10月15日
田島長官◆久邇宮家、初台の家はお気に入らぬゆえ致し方なしとして、西落合の家は久邇宮俔子妃も御覧済みの由で、今一つ柿の木坂にあるとのことです。

1951年10月23日
田島長官◆久邇宮家は西落合に移転先が決まりまして、値段も450万円で手数料も10万円ということでまず一安心いたしました。
昭和天皇◆それはよかった。
これで誤解のないよう御行状をお慎みいただかないと困る。

1951年11月9日
田島長官◆久邇家経済顧問塚越虎雄〔元皇室経済主管〕が参り、久邇宮朝融王は西落合御移転のことは決まり、その差額と箱根の売渡金で多少の手入れのお金を投じましても、お子さん方のご教育にお金を出しましても、どうにか予算の立つことと存じます。
大協石油の顧問料の方も税を引かず3万円差し上げることになりましたそうですし、一段落かと存じます。
飯野海運会社社長俣野健輔が舞鶴行幸のお礼に参りまして、邦昭さん〔朝融王の子 久邇邦昭〕が入社試験の結果3番であったむね申しておりました。
昭和天皇◆朝融王もみなの厚意に感謝して、久邇家の再興と思われるといいんだがねー。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年1月19日
久邇宮朝融王、またかつがれる話。

1952年1月30日
久邇宮朝融王、ムルチ事件。

1952年2月19日
三谷に例の作文渡す。

1952年2月20日
女官長来室。
良子皇后久邇宮朝融王のこと御心配、智子裏方に頼む云々。
おやめいただき、久邇宮朝融王のこと話す。

1952年3月22日
久邇宮朝融王・東久邇盛厚王行状のこと、昭和天皇御心配のこと。

1952年4月2日
久邇宮家経済顧問青木一男より電話。
久邇宮朝融王と東日本との関係報告あり。

1952年10月17日
山梨大将に久邇宮朝融王の件を話す。
進んで栄木弁護士と共に事に当らんとの話、感激に堪えず。

1952年10月23日
山梨大将より電話で「久邇宮朝融王の手形取り戻し得たり」
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1952年1月3日
田島長官◆御成年になられました明仁皇太子〔平成天皇〕へ菊栄親睦会に御出席のお誘いがありましたそうですが、あまり結構な会合でもないようでございます。
賀陽宮邦寿王・久邇宮邦昭が相当酒を飲まれたとの噂、式部官長松平康昌も『我々の会の方ではない事がある』との話で、お酒を召し上がる元妃殿下もあり、鷹司平通〔孝宮和子内親王の夫〕あたりも感心せぬ光景もありますとか、順宮厚子内親王もお酌をなすったとか、戦後急に自由奔放におなりかと存じます。
昭和天皇◆いや、臣籍降下の前からで、秩父宮・東久邇宮稔彦王・朝香宮鳩彦王など、必ずしも若い人たちばかりではないよ。

田島長官◆久邇宮朝融王でありますが、正月お玄関まで出ましたが、結構なお家であります。
常盤松等にて入金2,200万円、出金は西落合460万はじめ税金等900万円で、概算1,200万円運用し得るようになりまするので、2/3を2割・1/3を1割くらい運用しますれば 200万円、他に山林で50万円、大協石油の顧問料の一部が20万円で約270万円ゆえ、御生活は予算でできることかと存じます。
まず一段落であります。
昭和天皇◆まあ、良かったねー。

1952年1月25日
田島長官◆久邇宮朝融王がまた〈東日本都市開発〉の総裁とかのに名を利用されておられる事実があり、「〔久邇家経済顧問・元大蔵大臣〕青木一男に聞いてくれ」と言うておられれば無事でありまするのをそう言われないため、明らかに断られぬ以上先方は承諾と思うて利用するということ、真に困ったことであります。
昭和天皇◆それは困るねー。弱い性格だねー。

1952年2月3日
田島長官◆久邇宮朝融王がまたちょっと変なことを遊ばして困っております。
インド人が何か犯罪のあったのを許してもらうよう東京地検馬場義続をご訪問になったということで、そのお礼にお金をお取りになったとの噂であります。
なんと申しましょうか朝融王には閉口であります。
国家とか社会とか人のためとかいうようなお考えはなく、自己の快楽ということのみにお動きのように見えます。
なにぶんにも良子皇后のお兄様で。
昭和天皇◆禁治産にでもしなければいかぬか。

1952年2月5日
田島長官◆久邇宮朝融王の問題はムルチというインド人の問題の他に、また一つ理解しがたい嫌になってしまうようなことがございます。
大協石油の高橋真男に田島との親疎の程度をお聞きになった上に、「ちょうどいい時だから、田島に顧問の塚越虎雄〔元皇室経済主管〕を辞めさせてくれるように話してくれ」とのことであったとのことであります。
人の苦労を感謝する念は少しもおありでなく、まだこれからの仕事もありまするのにそういうことを言われます。
インド人の問題でありますが、先日高津青山という男が安倍の紹介で参りました。
安倍は勤皇の士だと申しておりました。
その高津の話に「良子皇后のお兄様の朝融王がインド人のムルチというのに2千万円投資されておられるが、先日ムルチがある犯罪で捕らわれたのを釈放運動された。しかしその御礼に300万円取られたとの話であります。それでそのことで馬場検事正に会って話をしたらば、『そのお金だけは返しておかれたほうがいい』という意見を言ってました」というような訳でございます。
とにかく御本人に一度聞いてみる必要がありますので、塚越に頼み朝融王に聞いてもらいましたところ、「ムルチというのはファーイースタントレジングというので知っている。行ったことはあるが投資はない。また金などもらっていない。食料品等を貰ったり買ったりした事があるだけだ。そしてその商会の加藤隆也という者が出入りしてたが、もう来ないようになった」というふうな御返事であったそうであります。
それでただいま宮内庁次長に馬場検事正の所へ行ってもらっております。

田島長官◆久邇宮朝融王の件につき次長が馬場検事正を訪ねました結果、場合によればちょっと嫌な問題となりかねませぬ。
もし金を取っておられますなら、返す方がよろしいと思います。
昭和天皇◆弱き方ゆえ強く出ればおとなしくなるかもしれん。
少し急いで運ぶ方がよい。

1952年2月8日
田島長官◆朝融王の件ですが、かなり強く追及致しましたが、結局ムルチが会社組織になったとき社長になってくれという話で、それを承知してたということだけはわかりましたが、どうしても投資はないと言い張られますし、「金はもらったことない。パンなど食料品・ネクタイ・靴下のようなもので価値5~6万円ぐらいの物をもらっただけだ」とのお話で、これも金で返せばいいでしょうというようなお話。
馬場検事正に贈物をされ、宮様からとのことでお返しにするに苦労して、検事長に相談のうえお返ししたとかいうことと、税関の役人を饗応しておられるらしいのであります。

1952年2月11日
田島長官◆久邇宮朝融王を総裁に奉る〈東日本開発会社〉の社長末延一二三という者と常務の春日井という者が永積の紹介で田島に会見を求めて参りまして、「皇室のため国のためとしてやっていることに雑音が入るので残念」とか申して参りましたゆえ、「青木・塚越に相談されたく、宮内庁には宗秩寮的なものはなく、あっても朝融王に御関係なきことになっている」むね申しました。
昭和天皇◆万一検事局へでも出ることになる場合のため、早く始末することをなぜなさらぬか。

1952年2月16日
田島長官◆久邇家経済顧問青木一男〔元大蔵大臣〕らが新憲法〔久邇家の家憲〕を作り、顧問になるには青木らの同意を要すると決め、大協石油などその手続で致しておりますのに、久邇宮朝融王はそれと時を同じうしてムルチや〈東日本都市開発〉など御関係で、真に恐れ入りますが田島はもう嫌になってしまいます。

1952年2月18日
田島長官◆久邇宮朝融王は始終お出歩きでお出かけ先もわからず、我々がご心配申し上げたるに少しもおいでになりませぬ。
朝融王は国とか社会とか人の為とかいうお考えは少しも無いようで、ご自分の享楽や利益のみに頭を働かせておいでのようで、お金とかゴルフとか宴会とか食事ということには相当突っ込んで口出しになりますが、他の事はいつでも沈黙であります。
田島はお役目上累が皇室に及びますゆえ避けられませぬが、青木・塚越などはその責任もないのによくやってくれると思うぐらいであります。
これらの人も間接ながら天子様のおためと思えばこそ、やってくれてると思います。
良子皇后のお兄様ということで。
昭和天皇◆どういうお考えなのかねー。累が皇室に及ぶし、及ばねば良いというわけではないが。
田島長官◆元皇族の御身分でどんなことも大したことにならぬとタカをくくっておいででないでしょうか。
昭和天皇◆いや、ムルチのことは外国関係があるからそうはいかぬように思われるし、それはいいとしても新聞に出ればそれでやはり累が皇室に及ぶし。

1952年2月20日
田島長官◆朝融王はまだおいでにならず、昨夜電話をかけましたところお出になりませず、後から電話するとのことでありましたがお電話なく、再度田島よりかけまして渋々お出になったようですが、「まだ青木の所へ行かれぬのはどういうことですか。田島のためではありません。朝融王御自身のためであります」と申し上げましても、「そのうちに」というようなことでしたから、良子皇后の御兄弟として何事もないとお思いなのか。
御自分の享楽のためのみで、お金とか女とかいうことのみで、朝融王は青木の所へはおいでではありませぬが、昨夜有楽座へ活動写真へはおいでになり、本当に田島も朝融王だけは嫌になってしまいます。
昭和天皇◆私と同級で50を越しておいでだが、世のご経験がないため全ての事がそういう風だと思うから、田島も子供だと思って。

1952年2月26日
田島長官◆朝融王はムルチのことと〈東日本都市開発〉総裁のことはこれで片付くと思いますが、後から後から同じようなことをなさるので閉口いたします。
青木・塚越のような顧問だけでは終始お付きしているわけでなく、この際青木・塚越より格の低い人で硬骨の人柄の良い人に御邸に常勤してもらうことが必要ではないかと存じております。
昭和天皇◆朝融王は婦人がお好きゆえ、しっかりした女性で反対する事は反対するというような人を得られたらいいかもしれない。
田島長官◆ありますれば結構ですが、なにぶん時間が余って仕方ないので困ります。
昭和天皇◆それは他の皇族さんでも元皇族も一緒だが、朝融王は研究とか本を読むとかいうことが嫌なら、音楽はお好きゆえそれでもおやりになればいい。
婦人も音楽のできるような人がいい。

1952年2月29日
田島長官◆朝融王が青木訪問を躊躇されたのは、ムルチ事件で青木から追求されるのが嫌で一日延ばしにされたらしいとのことでありました。
どうも困りますがこのことはこれでよろしいといたしまして、塚越が「朝融王は公平という指圧師の所へ一日おきに出かけられる。関係のあった二人の女の人も公平で指圧を受けてた。公平は繁盛しなくなると朝融王を看板にするというようなきらいがある」というようなことを申しておりました。
昭和天皇◆指圧そのものは悪くなかろうが、人物が悪ければまたそんなこと。

1952年3月7日
昭和天皇◆松平直鎮〔松平直鎮子爵〕は1~2年前だったか、久邇宮朝融王と一緒に来て、何か神がかりの迷信のようなことを言うから反対したことがある。
〈北辰教〉のやり方は真に困る。
そういう邪教はどうしてできるか。
信仰の自由は困るねー。

1952年3月10日
田島長官◆久邇宮朝融王の事は、永積侍従からも入江侍従からも聞きましたような事をまた聞きまして、永積は糸川松平直鎮子爵から朝融王の御書を取り戻したいような希望も申しておりましたが、とにかく朝融王が北辰神社にご関係なきことは絶対必要と思いましてお目にかかりました。
「今日は何のお叱りを受けますか」というような態度でおいででありましたが、話の筋はよくおわかりになりました。
「直鎮が私に来てくれと言い、風邪で行けないと言ったら、書いた物をと言うことでやったのだ」との話でありました。
ムルチの事はおもらいになったと思ってらした物の書付が向こうにあり、代価を払うとの話でありました。
中に入った加藤隆也という人物のことはわかりませぬが、朝融王としては大した事はなく、改組の時の社長ということにつられておいでだったかと思います
田島はもちろん青木や塚越はいつも難しい事ばかり言うので朝融王の方お近づきにならず、大協石油の高橋の方にお近づきになりますから、高橋からおためになることを申し上げるようにするとよろしいかと存じております。

1952年3月28日
田島長官◆久邇宮朝融王はムルチの方は御関係を深入りされることはない様子でございますが、〈東日本都市開発〉の方はご本人がはっきりお断りにならなければということになっておりますが、ご本人はあまりはっきりでもないご様子でございます。
それから久邇宮俔子妃の例の襖絵の100万円は利息も積んでありまして130万円になりました。
それからお子様方の分の御降下資金を朝融王が焦げ付かせておしまいになりましたことゆえ、今回御邸御買い替えの差金はお子様方の名義にすると塚越は申しておりました。

1952年4月5日
田島長官◆〈東日本都市開発〉の人が久邇宮家経済顧問青木一男〔元大蔵大臣〕の所にやってきました由で、はじめは「久邇宮家にいろいろ経済的・物的に尽くしたい』と申しておりました由ですが、青木としては久邇宮朝融王の立場からして「仕事は良いことでしょうが、一般論で同意しかねる」と申した由で、青木としては片付けたということでありますが、朝融王ご自身はどうも断然ではないような風もあります。
昭和天皇◆自動車でも借りてるか。
大協石油から借りればいいのに。
田島長官◆さようであります。
青木の話ではインド人ムルチの方はいろいろ追及しましたが、何かもらっておいでのようなことはなく、さすれば別に大したことはないとのことでありますが、検事のような関係もあり、これはお離れのように思われます。
ただし蘭の栽培に関連してまた何かあると青木は申しておりました。

1952年5月12日
昭和天皇◆久邇宮朝融王からラジオの伝献を受けたのだがねー、あの方だから何がそれがまた利害に関係やしてやしないとかと思うのだが。
田島長官◆何かありますかもしれませぬ。
蘭の温室は200万円もかかりまするが、久邇宮俔子妃の建て増しすら50万円程度でありますゆえ、御全廃には不同意ゆえ小さくして移すことにするむね塚越が申しておりました。
〈東日本都市開発〉とは手が切れたはずでございますが、また広告に出てますそうで、厳重抗議すると塚越は申しておりました。
今度は何の宗教か存じませぬが、2人の中老婦人が付きまして同行で伊勢参拝をなされたとのことであります。
真に困ります。

1952年6月9日
久邇宮朝融王の〈東日本都市開発〉の件がだんだんひどくなってきた事を申し上げ、
「たぶん新聞には出ますまいが、あるいは。当初より分り切ったことで、真に困ります」と申し上げしところ、
昭和天皇◆直接損害はないねー。
田島長官◆訴訟にでもなればその費用が入用ということになりますが、受身のことで今は積極的に損ということはありませぬ。

1952年8月27日
田島長官◆久邇宮朝融王が新聞に出ておりまして、日印文化協会の総裁になられたとありましたが、発起人は例のインド人ムルチらしくございます。
何かまた悪い影響はないか、久邇家経済顧問青木一男〔元大蔵大臣〕にも相談してみたいと存じております。

1952年9月16日
久邇家経済顧問塚越虎男〔元皇室経済主管〕から聞きし、久邇宮朝融王が新しき女を追って気がどうなったかと運転手が思うほどだということ、飯野海運が動産を100万円で買いしこと、それは久邇宮俔子妃のための改築に使用のこと、蘭の処分のついたこと、10万円を横取りされしこと、〈東日本都市開発〉の尻を持ち込まれた手紙のことなど申し上しところ、
昭和天皇「準禁治産にする他なし」との仰せ。

1952年10月23日
田島長官◆久邇宮家経済顧問青木一男〔元大蔵大臣〕が参りまして、久邇宮朝融王が1千万円の手形を経済顧問に無断でお振り出しになり、こういうことでは辞する他ない、久邇家経済顧問塚越虎男〔元皇室経済主管〕も同一意見だということでありました。
お引き受けします時に憲法〔久邇家の家憲〕を作り手形の振出は顧問の同意を得るむね明記してあるありまするし、これには朝融王・両顧問および田島も立会人として署名いたしておりまする関係上、辞任はもっともだと言う他はありませぬ。
しかし手形は普通の証文と違いまして支払義務の強い物でありまするゆえ、もしこれが支払いともなりますればせっかく常盤松をお売りになったのが水の泡となりまするし、この手形を渡されて代り手形を持っておられるだけでありますが、これはどうしても取り戻さなければならぬ、急いでやらねばならぬと青木も申しておりましたが、顧問でなく弁護士としてもこの問題に携わるのはイヤだと青木は申しました。
それで久邇宮家家職池内治三郎に事情を聞きました。
千代田銀行支払場所と書かれた支店からの照会に端を発し、顧問には話さんでよいとの回答、取り戻しを試みてウヤムヤとのこと、元子爵松平直鎮の紹介による人間に手形を渡されたことなどを申し上げ、宮内庁の仕事という訳にも参りませんゆえ、従来久邇邦明さん〔朝融王の子〕のことなど親切にしてくれますので、元学習院院長山梨勝之進に頼みまして元東宮職事務主管栄木忠常が弁護士をいたしておりますゆえ、それに池内も今回は朝融王の意思に反抗して十分働き、ついに取り戻したと山梨から電話がありました。
まず幸いだったと存じますが、今後ともこんなことが頻発する恐れは十分ありまするし、その上に青木・堀越の辞任は当然でありますると今後どうなりまするか。
昭和天皇◆そうか、取り戻せてそれは幸いだったねー。
しかし今後が心配だ。

1952年11月4日
田島長官◆久邇宮家のことでありますが、宮内庁分室で久邇宮朝融王にお目にかかり、久邇宮家よりの御依頼で青木一男〔元大蔵大臣〕・塚越虎男〔元皇室経済主管〕の経済顧問となりし経緯および憲法〔久邇家の家憲〕作成の経緯、手形振出の危険性、そのため憲法〔家憲〕の一条たること、その無視によって両人が辞するは当然なること、立会人の田島としても当然と思うことなど、いろいろ申し上げても何ら発言されず、辞められては困るとの話もなく、むしろ黙して認められた形でありました。
手形取り戻しのためには一刻を争うために久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院院長〕に頼み、山梨が宮内庁および学習院で人物をよく知る弁護士栄木忠常〔東宮職事務主管〕に頼み、幸いにして取り戻したこともお話ししましたが、これについても朝融王から別に御話はありませなんだが、顧問のいなくなったのをいいことにして手形などおやりになってはお家の一大事でありますから、今回のことを頼みました山梨にでもとサゼッションは申し上げました。
山梨が久邇宮家のことに当ってもらえる好意はわかっておりますゆえ頼みましたところ、栄木は人物もわかっておるゆえ頼むとのことで同意しましたが、法律的で経済のことはどうかと思いまするので陰で田島が相談に乗っていいと今は思っております。
顧問のうるさいのが取れたを幸いに何をなさるかわからぬとも考えられますので、皇室の御近親として放っておきますことは田島の職務上関係のあることかとも思いますので、この際昔ありました宮務監督なような者として山梨を頼み、宮務を全て見てみてもらうことして、栄木も頼み、また経済上の運営は久邇宮俔子妃のために横山大観の襖の売り代の運用等のこともありますので誰か入用かとは考えますが、この方針はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆私は山梨をそうするが一番いいと思うが。
それから効果の点は疑問だが、久邇宮俔子妃に申し上げて、少し朝融王に言っていただいたらどうかと思う。

1952年11月5日
田島長官◆久邇宮朝融王のことでありますが、昨日青木に会いましたところ、久邇宮家に番する人が誰もおらねば半年を待たず危ないと申しておりましたが、今回青木の辞任のことを申しましても後任を頼むとの御話はありませぬ。
それゆえ放置いたします他ありませんが、田島としましては山梨を昔の宮家別当または宮務監督のように依頼して万般後見をしてもらいますことが自然で一番よろしいかと存じます。
昭和天皇◆それは一番良い。そうしてくれ。

1952年11月20日
田島長官◆久邇宮朝融王のことでありますが、久邇宮家相談役山梨はお頼まれもせぬに買って出るという順序はつけましたが、経済顧問のことは何とも目鼻つかずおりましたところ、田島・青木〔久邇家元経済顧問〕・塚越〔久邇家元経済顧問〕は憎まれ役、大協石油社長高橋真男は提供者でお親しみやすく、高橋に万事お打ち明けになり、「田島がえらく怒った。あそこへ頼んでも仕方がないので、元日本銀行総裁結城豊太郎の婿というので藤山愛一郎に頼んだら断られた。それで日本輸出入銀行総裁河上弘一はどうだ」とご相談があり、河上は信頼しうべき人で承知してくれればこれに越すことはなく、高橋は顧問にお願いしている関係もあり、河上も大協石油の監査役ゆえ、この二人の間で受けてもらえば山梨も河上の人柄はいいと思っておりまするし、バラでも結構だと存じます。
顧問がいなくなればうるさくなくていいとのお考えだと困ると存じましたが、誰か欲しいと高橋などに御相談あるのは誠に結構で、ひとつ河上に面会して頼みますつもりでございます。
昭和天皇◆手形などは私なども話を聞いてもよくわからぬ。
朝融王も手形のことなどよくわからぬだろうと思う。
わからぬことはわかった顧問に聞けば一番安心で世話もないのに、どうしてああいうことをなさるのだろう。

1952年12月2日
田島長官◆久邇宮朝融王の方は、明日久邇宮家経済顧問青木一男〔元大蔵大臣〕・久邇宮家経済顧問塚越虎男〔元皇室経済主管〕が残務終了で来ると申しておりました。
また300万円入るようで。
昭和天皇◆それはいいねー。
田島長官◆青木は田島に何か結末をつけたいらしゅうございますが、山梨が引き継ぎを買って出ておりますゆえ、久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院院長〕・久邇宮家新経済顧問河上弘一〔日本輸出入銀行総裁〕・久邇宮家新相談役栄木忠常弁護士〔東宮職事務主管〕の線へ具合よく持って行きたいと存じております。

1952年12月16日
田島長官◆久邇宮朝融王がまたも心配なことをなされました。
青木・塚越の2人と今回の河上・大協石油社長高橋真男・山梨・栄木の4人と引き継ぎ打ち合せに河上・高橋が遅刻でありまして、朝融王が先だっての山口同道で来られて高橋の大協石油の手形500万円を貸してくれととのお話であり、もちろんお断りしましたのですが、そんな風でどうも手形の危険が本当におわかりにならず山口と手も切らず、真に困ったことと存じます。
どうも女の関係で何かお金の必要があるのではないかと想像されます。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1953年1月16日
田島長官◆久邇宮朝融王のことでありますが、小川雄三という元参議院議員がありまして、利根川工事御覧の節昭和両陛下と本人とのスナップがありましたのを選挙運動のビラに使った男で、今日海軍中将金沢正夫と同行して参り、「在米邦人が皇族が無理なら元皇族に渡米していただきたいと言うので、朝融王にお願いしたらお喜びでしたが、宮内庁の意見を聞いてくれということで来た」とのことで、3千万円の旅費はその小川雄三が負担し金沢正夫の他に海軍大将野村直邦も御供するとのことでありますが、侍従長三谷隆信に聞きましても野村直邦はあまり考えの深い人ではないとのことでありますし、元皇族でも一個人の金で御旅行になるはいかがかと存じまするし、小川のごとき人物では何かの代償のないはずはないと考えられます。
幸い海軍の人のことであり久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院院長・海軍大将〕も人物は知っておりましょうから、宮務監督の立場で山梨に善処してもらいたいと思います。
昭和天皇◆金沢は思い出さぬが野村は知ってるが、考えはあまり周密ではないだろう。
私がヒトラーとナポレオンとは同じではないか、ロシアに攻め入ってと聞いた時、単純にヒトラーは違いますと言ってたからねー。

1953年1月19日
田島長官◆山梨が吉田に会いまして、小川雄三が側近などと申しておりますゆえこれはあまり面白くないということを話し、旅券等の問題について外務省の方へも話を通してもらうということになりました。
金沢正夫は山梨が次官の時の副官、野村直邦は山梨が艦政本部長の時の下役ではあるが、「やんわり流産になる方がよろしい」と申しておりましたが、小川の人物は利根川御視察の時に昭和両陛下と撮られた写真を選挙の時に印刷して町々に貼りましたことなどから考えましてもおよそ見当はつくのでありますが、山梨は小川については我々より慎重であります。
野村直邦も参議院を狙っておりますとか、海軍大将山本英輔に相談しましたら「俺が出る、やめろ」と言われたとか言う人だそうでありますが、金沢正夫は利口・野村直邦は押し出しがよくどしっとして、刀の大小ようないいコンビとか申しておりました。
海軍の大将・中将が視察団とか言うて出かけるのもいかがかと存じられます。
参議院選挙のためか急いでおりますので、うっかりしているうちに事の運ばぬのようにと存じております。
野村・金沢はコンビのようでありますが、小川は宮東孝行とかいうちょっと変わった人の紹介で知ったらしく、3人は古くからの仲間ではないようであります。
山梨は朝融王の意図を挫けば顧問として信頼がなくなり、何もできなくなるということを憂えておるようであります。

1953年1月21日
田島長官◆久邇宮家相談役山梨より電話がありまして、野村直邦の同級生の筆頭 海軍大臣近藤信竹が訪問してきました由で、野村に「終戦まで現役の海軍大将・海軍中将二人が揃って軍事視察団などと言って出ては日本の軍国化を世界に疑われ、海軍は従来世界に信用あるのをこんなことで打ち壊しては困る」という話で、野村も「まあ、やめですかねー」というような話であったとの中間報告がありました。
野村はやはり参議院に出るらしくあります。
昭和天皇◆参議院はずいぶん出るね。
元陸軍大臣宇垣一成や何や老人だと言って出なかったようなのが出るが健康が堪えるのかしら。
じっとしてるのが寂しいと言うか虚栄心と言うか、参議院に老人が多く出るねー。

1953年2月11日
田島長官◆久邇家朝融王から海軍大将野村直邦が手を引きましたことは確かで、海軍中将金沢正夫はまだ何か応援しておりますそうでありますが、元議員小川雄三の人物はわかってまいりましたゆえ、近く立ち消えと存じます。

1953年2月25日
田島長官◆野村直邦・金沢正夫は久邇宮朝融王から離れましたが、肝心の小川友三というつまらぬ元議員が離れませず、元法務政務次官遠山丙市とか言う元議員の人物も加わりまして、ララ物資のお礼としておいでになるということが伝わりまして、東久邇宮盛厚王からの通報もありまして厚生省方面・都庁方面で知らぬ事ならばインチキでありまするゆえ調べましたところ、両方とも何も知りませんのとのことであります。
久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院院長・海軍大将〕は宮務監督のような立場で行くためには初めから御機嫌を損ねては何もできぬからという理由で、朝融王に何も言わず自然に問題の解消するようとの方針でありますゆえ、円満に解決は結構でありますが後腐れの残らぬようにと申しました次第でございます。
海軍の人は手を引きましたが肝心の朝融王はおいでになりたくて仕方なく、外務省へ旅券申請が出ましたとのことで、容易に旅券の出ませぬよう話はしてありますが、ご本人に不可ということを申し上げなければ問題が変転して続きますゆえ、円満主義は結構でありますがこの際はもはやご本人に申し上げぬでは済まぬ時となりましたゆえ、どうも少し円滑に事を運ぶことに一生懸命すぎてこと壊しのことがあるようにも思われます。
昭和天皇◆高宮太平の『天皇陛下』という本に、山梨の円満主義のためにロンドン海軍軍縮条約は軍令部次長末次信正などに押されたという批評が出てたよ。
田島長官◆山梨は吉田と元外務大臣野村吉三郎は仲が悪いと言い、従来は山梨は吉田といい口ぶりでありましたが、昨日の話では山梨も吉田を離れた口ぶりでありまして、改進党総裁重光葵はどうかと申しておりました。吉田は旧軍人一般にも飽かれた様子であります。

1953年2月27日
田島長官◆久邇宮朝融王のララ御礼の事でありますが、厚生省も知らず東京都も知りませぬ事で、落選しました遠山丙市という人の利益のために朝融王を担ぐようでありますので、小川友三が離れず遠山という新たな者が出現しまするゆえ、どうしてもご本尊の朝融王に直接申し上げる必要があると存じまして、山梨は同期生の海軍中将長沢直太郎と保安庁第二幕僚長山崎小五郎を同行して、「遠山とかいう者が朝融王をアメリカにと申しておりますそうですが、居留民から金を取って参議院選挙にするらしい様子で法律スレスレのことをする男ですから、自由党のために利用されるようなことになりますからこれ行きはおやめの方が良い」と話し、この遠山の話は調査を命じましたところ、遠山が農林大臣広川弘禅の所で渡米の話をして、「自分ではダメゆえ、久邇(と呼び捨てにして)を担ぐ」という話を聞いた者があるとの報告で、山梨は朝融王には広川とは言わず自由党と申したようであります。
久邇宮家家職池内治三郎の話では3月6日に御出発と言うので、山梨は3月7日に久邇家関係の一席を催すことを申し上げ、御承知になりましたのでまず大丈夫というような話でありますが、社交的な一席ぐらい洋行となればお取り消しにはなりますゆえ苦慮いたしております。

1953年3月5日
田島長官◆久邇宮家家職池内治三郎が参りまして、久邇宮朝融王が赤坂の芸者を落籍されるためにどこかから200万円を借り入れられ、その期限が来て困っておられるような話を聞きました。
これは困ったことで、その金を得るためにいろいろな誘惑に引っかかられる恐れがあります。
昭和天皇◆そんな金は内廷から出せないよ。
田島長官◆もちろん田島もそれを内廷からなどとは決して考えておりません。
中野にその女の実家か妾宅があるとのことであります。
正夫人を迎えられる意思なく、やむをえず一定の女のありますることはよろしいと存じますが、ご自分も朝香宮鳩彦王のようにと言っておられるとのことでありますが。
昭和天皇◆鳩彦王はそうなのか。
田島長官◆熱海の御邸に上りました時、若い女の人がおりましたことは確かでございます。
朝融王は一人の人に定着されれば200万円も致し方ないのでありますが、じきに飽きられるので真に困ります。
今度の洋行問題でも女さんの問題でも、久邇宮俔子妃は御承知かと聞きましたが御承知ないらしく、久邇宮俔子妃のお耳に入ることは憚っておいでのように思われますとのことでありましたから、もし久邇宮俔子妃から朝融王に御注意あればお従いでしょうかと聞きましたところ、家職池内はそれはお聞きになりましょうと申しておりました。

1953年3月12日
田島長官◆久邇宮朝融王のことでありますが、元議員小川雄三について在米総領事から外務省に照会がありまして、在留邦人会に朝融王渡米のための資金募集をいたしておるとのことで、外務省としては否定の通知をを致しましたそうでありますが、だんだん真相が出て参ります。
去る土曜日に久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院院長〕の名で一会催しました。
従来田島の名で致したと同じ種類でありますが、田島は監視するとお思いのためか、土曜日の催しは大変お喜びで今後もやってくれと仰せになりましたそうであります。
久邇家相談役栄木忠常弁護士〔元東宮職事務主管〕が来て尾張徳川が財産を全て会社に移しましたことを久邇家経済顧問高橋真男〔大協石油社長〕が承知しておりますので、それに倣うことに方針を決めましたようであります。
滋賀県の山林はなかなか大したもので1億円ぐらいの価値があるとのことで、青木時代〔元久邇家経済顧問青木一男・元大蔵大臣〕に御邸のためにできました金で、平常の御経費はちゃんとあるとのことであります。

1953年3月26日
田島長官◆久邇宮朝融王の事がとうとう毎日新聞のニューヨーク通信員からの通信で出ましたが、在米邦字新聞の憤慨から小川の名前から除名されたこと、明仁皇太子に拝謁のお世話をするとか・朝融王の御紋付盃は何ドル・他は何ドルと在米邦人の血を吸う悪辣なことということが出て、朝融王のお名前もはっきり出ております。
これはかえってよろしいのではないかと存じます。
山梨は穏便に運びすぎいかがかと存じておりましたが、そのやり方でうまくいったと存じておりますようでございます。

1953年3月30日
田島長官◆久邇宮朝融王のお人形の問題はしかるべく取り計らいました。
〔朝融王が皇太子に人形を献上した〕総務課としては全部断っておりますが、御兄妹様としてそれもどうかと存じまして。
昭和天皇◆実は人形でなくその人がまたとんだ人間ではないか、アメリカ行きの厄介は取れてもまた変な人がくっつくのではないかを私は心配したのだ。
田島長官◆朝融王はどうも人の弁別が難しいと見えますが、ただいまのように解放せられては変な者が寄りつきます。
昭和天皇◆意志が弱いから。
田島長官◆元子爵松平直鎮は今もどうも良くありませんようで経済上も良くなく、朝融王に御紹介して何かいいことでもあるのではないかと察されます。
昭和天皇◆松平直鎮は私の所にも変な神様に関して言ってきたが、私は皇室は神道以外はお断りするとはっきり断ったものだから、それきり来ないよ。

1953年4月14日
田島長官◆久邇宮朝融王に関しますることでありますが、先だっての人形献上の会の人を調べましたところ、大して悪い人のようでなく同時に深い御因縁はなく、献上について一度お目にかかったようになっております。
数日前朝融王が良子皇后にお目にかかられました節、毎日新聞の重役に頼まれ色紙を御持参になり御真筆をいただきたいとお頼みになりましたそうで、ハッキリお断りすることになっておりますが、人形の献上に成功されたためにまたこういうお願いをされたのではないかと存じます。
また良子皇后に二つの話を申し上げられたそうです。
一つは立太子礼のごとき時に母方の近親が式に参列できぬとはおかしいということ。
もう一つは良子皇后がバイオリニストのシゲティをお聴きになるという催しがあるのに朝融王なんかにお知らせがないのはおかしいというお話でありましたそうです。
これは邪推でありますが、御真筆をお願いした毎日の重役ではないかと思うのであります。
と申しますのは毎日新聞でシゲティを呼びましてその演奏をお聴きになりますことゆえ、朝融王にお誘いのないことから始まった話ではないかと存じます。
昭和天皇◆毎日新聞はちゃんとした新聞だから人形の場合のような訳のわからぬ人の依頼ではないが、お礼ぐらいお貰いになるのかしら。
田島長官◆毎日は堂々たる新聞でありまするが近来朝日・読売と大競走で、何か新しい企画を狙って紙数の増加を図っております。
明仁皇太子の原色版の御肖像を読者に配布しております手で、良子皇后の御真筆などいまだかつてない物を読者に配りたいのだと思います。

1953年4月18日
昭和天皇◆元皇族に関することだがねー。
元皇族が天長節に出られぬの不満に思うのは、追放と臣籍降下を考えてるのではないかと思う。
竹田宮恒徳王のような経済上もよく行ってるところは大したことはなし、また東久邇宮稔彦王のようにもともと臣籍降下論者の方は何でもないが、久邇宮朝融王とか朝香宮鳩彦王とかいうような方は経済的にもうまくないし、朝融王などが御自分が悪いから仕方がないが洋行できると思っても洋行できず、そういう点で不満ではないかしら。
田島長官◆竹田宮恒徳王は既に洋行にお立ちになりましたし、朝融王としては御自分の悪いことは別としてご不満でありましょう。

1953年4月28日
田島長官◆久しぶりに久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院院長〕に会いましたゆえ、「直接朝融王には何も言わず片づいて、あなたの方策の方が成功でありました」と申しました。
昭和天皇◆いや、穏当な方法はいいけれど、新聞に出てしまった。
早くやれば新聞に出ず、朝融王の名誉も保たれたわけだよ。
田島長官◆人形の献上も良子皇后との御関係もあり些細と存じそのままに願いましたことが、毎日の色紙の問題となりました。
ああいう方は穏健にしてご自分で考えていただくということができませぬので、朝融王には油断はなりませず、誰かお付きしてもらう必要があります。

1953年5月19日
田島長官◆久邇宮家のことは久邇宮家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕らに頼んでありますが、良子皇后と御兄妹ということは切っても切れませんので注意はしておりまして、情報が入れば山梨なり久邇家相談役栄木忠常弁護士〔元東宮職事務主管〕なりに連絡しておりますが、久邇宮朝融王が200万円の手形を振り出され、その支払いに困って栄木のところで何とかしているということでありますが、また850万円の手形もあるとかないとかの話もあるようでございますが、それはかねてお話し申し上げました女の関係のものらしく、その女は赤坂の芸者で中野に家がありますそうで、よく出かけられた〈武むら〉は正式の待合でなく闇の商売屋とのことであります。
前回の200万円はその女を落籍せる金とかの話でありましたが、これもちょっと大金に過ぎるようであり、また噂の850万円はその女が何か商売を始めたいと希望しての元金ではないかととの噂もあるとのことであります。
この前の深川の女の時はやはり商売の金をと要求され、お断りになりその手は切れましたが、その後手形を書くことをお覚えになりまして、これは準禁治産にでもしなければ手形書きを防ぐ手はないように存じます。

1953年6月18日
「久邇宮朝融王に悪いニュースがあるのでありまして」とて、久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕来室の500万円・借財および抵当権設定・印鑑紛失届と新印届出に自身出頭のこと・山梨相談役と外科内科診療方法相違のこと・激論せしこと、不孝・不慈・不忠の朝融王は外科手術を要することなど、細事を御話す。
山梨相談役は辞職かと思いしに、「この程度のことは予想、田島長官在任中に辞めぬ」と申しましたことなど、ありのままに歯に衣着せず申し上ぐ。
久邇宮俔子妃御落涙のこと、朝融王の行状・迷信好き・自己の享楽以外何もなきことを全部申し上ぐ。
山梨相談役の話ぶり、「ご自分の物を担保にご自分のお金をお使いになるは結構ですが、けしからぬ人間が介在してお損になることはいけませぬ」という調子で、新印形を預かりしことも詳細申し上ぐ。
昭和天皇は「場合により準禁治産もやむなき」旨の御話あり。
心中直系皇族だけ重んぜられることはどうかとの念あるゆえ、
「今夜東久邇宮聡子妃お上りでありますが、最近御病気を遊ばしましたことゆえ、何かお見舞い遊ばすならば結構と存じます」と申し上げしところ、
「時期が大切」との仰せ。

1953年7月3日
久邇宮朝融王の印鑑変更、高利貸しの借入のこと、新経済顧問と久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕の配慮のこと、山林は会社になることなど善後策難しく、久邇宮俔子妃もお嘆きのこと、お姫様方の結婚にも支障ある恐れのこと、海軍時代も副官ら相当困ったとのこと、なにぶんにも皇室が御近親ゆえとの感で高利貸しら悪人がいつまでも絡むことなどなど申し上ぐ。
昭和天皇は憂鬱な御顔にて「準禁治産も仕方ないねー」をお繰り返しながら、昭和天皇から「私から忠告しようか」と仰せにならぬかと期待しながら、昔の皇族監督権は宗秩寮総裁にはなく昭和天皇のみなること、宮内庁長官など何の権もなきことを申し上ぐ。
昭和天皇◆久邇宮俔子妃が仰せになればお聞きになるかしら。
田島長官◆久邇宮俔子妃はただお嘆きのご様子に止まりますように存じます。
だんだんお困りになって直接良子皇后にでも金銭的なお助けでも仰せになりますると困ると存じます。

1953年7月25日
「久邇宮朝融王の滋賀県の山林は会社組織にしましたが、田島は本邸もその中に入れること申しましたが、相談役山梨は入れませなんでこの間の事件が起きましたが、山梨がよく申し上げました結果、朝融王もつまらぬことをしたとお思いのようでございますが、〔元日本興行銀行総裁〕河上弘一〔大協石油社長〕高橋真男らと協議のうえ邦昭さん〔朝融王の子久邇邦昭〕の名義にすることになりましたそうでございます」と申し上しところ、抵当権付売買ということ御合点なく、いろいろ御質問あり。
昭和天皇◆それでもはや安全か。
田島長官◆それは良子皇后のお里方という事実のあります以上、金貸しの奴が皇室で必ず何とかすると考えれば危険はいつでもあります。
禁治産者とせぬ限り、危険はあるわけであります。

1953年8月10日
昭和天皇◆今朝良子のところへ久邇宮朝融王が来て、清宮貴子内親王を久邇邦明〔朝融王の子〕のところへもらいたいという話があったということだ。
私は結論から言えば断って良いと思うのだが、その断りの理由を何とするか。
大谷の場合との関係もあるから〔良子皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが皇室側から断った〕どう言って断ったものかねー。
田島長官◆お答えは良子皇后と御兄妹の御関係でなるべく角立ちませぬ申し条の方がよろしいと存じまするゆえ、申し上げ方につきては少し考えさせていただきたいと存じます。
明日にでも申し上げたいと存じます。
しかし清宮でございましたらばまだ先のことでございますが、お待ちになりますのでございましょうか。
昭和天皇◆それは待つとのお話だ。
田島長官◆朝融王はいろいろ接触申し上げました節、あまりお子様のことをお考えになったことはありませぬ。
ご自分のことのみお考えでありまして、今回のお話も邦明様のおためとのお考えではありましょうが、どうも清宮とご結婚になれば将来皇室との密接な関係で全て御便利というお考えからではないかと邪推いたされまする。
朝融王がかつてお子様方のお話の出ました時に、秩父宮・高松宮・閑院宮に後継者がないから3軒へ養子という制度が皇族はダメならば事実上の養子にしてもらうと良いと仰せになりましたことなどを合わせ考えてみますれば、どうもまた皇室とご縁ができればいろいろ御便利があるとの考えから出たのではないかと邪推いたされます。
久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕は宮家からお頼みになり、経済的な面は〔元日本興行銀行総裁〕河上弘一〔大協石油社長〕高橋真男でありまするが、邦明さんの御就職・御結婚についてはずいぶん奔走いたしておりましたが、今回のことはそういうところへはご相談はないことかと思われまするが。
田島拝命前に賀陽宮と孝宮和子内親王の時には宗秩寮総裁松平康昌が出まして、〔賀陽宮邦寿王と孝宮和子内親王との縁談破談〕先方様はお急ぎであり孝宮和子内親王はお急ぎでないという風な申し方を致したと伺いますが。
昭和天皇◆今度は先方は急がぬと言うのだから、その理由はダメだ。

1953年8月11日
田島長官◆昨日お話は侍従次長ともよく相談いたしましたが、やはり御イトコさんのような近親の方はなるべく避ける方針ゆえこの話は見合せのことというように、後に残りませぬ言い方が一番よろしいと存じまする。
こういうことはいい場合は別でありますが、お断りの場合は早いお返事の方がよろしいと存じますゆえ、明後日那須へお出かけ前すなわち明日中にお返事あるほうがよろしいと存じます。
侍従次長稲田周一に御使を仰せつけられるのがよろしいかと存じます。
稲田ならば意味ははっきりと、そして柔らかに申すことと存じます。
昭和天皇◆そうか。
それは早い方が良いが、朝融王はなんだか宮内官を忌避しておられるようだし、だから昨日も直接良子の所へ言ってこられたのだが、良子が明日にでも呼んで良子から話したらどうか。
田島長官◆良子皇后のご兄弟の場合、はっきり仰せになりましても、それでも再考というようなことになり、良子皇后が「ええ」とでも仰せになりますれば後に残るように存じまするし、久邇宮の方で忌避なさいましても、侍従次長が御使に出ますは当然でありまして、田島は稲田をお通しいただいてお返事の方がおよろしきと存じます。
昭和天皇◆久邇宮への御返事は、法律では許してあるが優生学上および医学上からはイトコの結婚は避けた方がいいということゆえ、これは見合せしてもらいたい旨で言え。
ことに邦昭さんは御長子であるから良い後継者を一層必要であるからということを言え。
先方がそれでも何か言ったら、大谷も同様の理由でやめたのだと言え。
ただしこれはなるべく言わんで済めばその方良し。
稲田個人の用件のごとくして電話で今日都合を聞け。
先方へ行ったら昭和両陛下の御使として上のごとく言え。

1953年11月4日
田島長官◆久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕が参りまして久邇さん〔久邇宮朝融王〕の御邸の担保の問題はお損になるかもしれぬとの話やら、御邸は仕方ないとしても滋賀の山林だけは手のつかぬようにしたく、山の名前を取って〈金勝林業会社〉とかを作り、社長は久邇家相談役栄木忠常弁護士〔元東宮職事務主管〕でありますゆえ今回は朝融王はどうすることもできず、御邸はどうなりましても1億近いこの山林はどうにもならぬようになったと申しておりました。
しかし従来はちょいちょい伐木して税金も納めず収入としておいでのものを、会社となりましてはそうもなりませず、納税には困るとの話もありました。
しかし従来の無税がむしろ嘘でありますゆえ、税金の軽減を適法に考えればずいぶんありますゆえ、若干の納税はやむをえぬと申しておきました。

1953年11月9日
田島長官◆久邇宮朝融王がまた変なことをなされそうで困っております。
久邇宮家相談役山梨が外務次官を訪問し、朝融王が元海軍中将金沢正雄とか元議員中村嘉寿らとアルゼンチンにお出かけになるということでお止めしているが、旅券などあったら止めておいてもらいたいむね申し入れがあり、外務省としてはいかぬとか言いかねるというような話をしたむね外務省から宮内次長に電話がありましたそうですが、これは同じことの繰り返しで誠に困ります。
元議員小川友三と中村嘉寿と違いますだけで、訳もわからずにお出かけになりますのはいかがなものかと思いまするし、平素の御行状から察しますれば、外地で香しからぬことになると存ぜられ、場合によりますれば昭和天皇から御言葉でも拝せねばとも考えられます。
昭和天皇◆外務大臣などはどう考えてるだろうか。
田島長官◆岡崎外相はブラジルの時は勝ち組・負け組などあり元皇族などはおいで願いたくないと申しておりましたが。
昭和天皇◆私がただやめなさいと言うよりも外務大臣から外交上に障りがあると言えばいいが。

1953年11月10日
田島長官◆東条内閣の時に運輸大臣をいたしました五島慶太とも申す者は東横鉄道の実権者でありますし、その会社は不動産の分譲事業などをいたしておりますが、田島は鉄道勤務の時の同僚で知っておりますが、今日その息子に手紙を持たせて参りましたことは、久邇宮朝融王が先だってお金を借りてお貸しになり、そのことで久邇家相談役山梨らが苦心しております男と一緒に五島をお訪ねになり、各宮家の名前を連ね「それらの方々の全部の不動産を管理する組合を作りその理事長に五島になってくれと」のお願いで、五島はそのような仕事をいたしておりますゆえ儲け仕事でもあり田島のところへ様子を聞きに参りましたゆえ、「その男は朝融王に債務がありその債務の返済を迫られている男であって、そんな計画など無茶苦茶なものである」とあらすじだけ話しまして、五島も朝融王のことは承知しておりますゆえ、タッチせぬようはっきり申しておきました。
この方はまずこれで止まると存じますが、山梨らが後始末に苦心しておりまする最中に、その男に乗せられて御行動なさいますことは何と申し上げてよろしいかわかりませぬ。
良子皇后の御近親ゆえみないろいろ苦労いたしまするが、結局こういう風では朝融王の御行動で皇室の不名誉になるようなことができぬとは保証できませぬので、朝融王としては御不名誉でも準禁治産の宣告ということも必要になるのではないかとさえ思われまする。
そういうことができるかどうか法律的に調べてみるだけの段階に達したのではないかと存じます」
昭和天皇◆それは一つ手続のことだけは調べておいてもらおう。

1953年11月11日
田島長官◆昨夜久邇家相談役山梨を訪問いたしましたところ、山梨ら相談役一同南米行きの件不賛成ゆえ、外務省で旅券のことどうなりましょうと、どうしても行くと仰せあれば連袂辞任してあとはご勝手にと出る覚悟のほどを聞きました。
柔かい言葉の奥に山梨は決心があります。
五島申出の件も山梨に話しましたし、久邇家相談役栄木忠常弁護士〔元東宮伝育官〕にも通じまして準禁治産申立の手続研究はだいたい頼みました。
滋賀の山林を会社組織にいたしましたゆえ安心のようでも無担保で手形を出さるれば、準禁治産でない限り支払の義務があり、皇室が御親類ということでやる者がないとは申し切れませぬし。
昭和天皇◆よくよくのことゆえ、実際には準禁治産などやるべきでない。

1953年11月13日
昭和天皇◆朝融王は利益で動く人ゆえ、結局不利益だと言ったらわかりそうなものだが。
田島長官◆もちろんそういうことは申し上げまするが、高利貸しなどよからぬ輩が利益として申し上げる嘘の利益の方がより大きく、その甘い言葉に乗せられ真の不利益ということの判別力がおありになりませぬゆえダメでございます。
このまえ手形にお懲りになりながら、また担保付手形で借金をなさいますので、口車に乗られます。

1953年12月15日
昭和天皇◆久邇宮朝融王のことは久邇宮相談役山梨がやっているが、あれはどうなるだろう。
田島長官◆「富裕税に関して顧問が欲しい」との仰せゆえ、「一般ならば考えましょう」と申し、青木一男〔元大蔵大臣〕・堀越虎男〔元皇室経済主管〕を推薦いたし、その結果憲法〔久邇家の家憲〕ができまして、それを朝融王が破られ手形が発行されて、青木らは御不信任とて憤慨して辞任しましたが、これは当然のことでありますが、田島もその憲法の立会人となっておりますために青木らと一緒に去ることになりまして、朝融王の方から河上弘一〔日本興業銀行総裁〕にお頼み、陰ながら口添えしましてできましたが、それによりまえ海軍および学習院の関係で山梨が邦明さん〔朝融王の子久邇邦昭〕の就職の心配などをいたしましたこともあり、田島の引きましたあと山梨が引き受けたような形でありますが、宮家から御依頼になったわけではありませんのでお礼は宮内庁長官の交際費から支弁いたしております。
一度ゆっくりと田島に会いたいとのことでありましたので山梨を訪ねましたところ、従来は久邇宮家の家職がまず山梨に通じ、山梨がある程度こなして、田島に連絡するという取り扱いであったのを、今後は久邇宮の家職は直接宮内庁長官に通じ、新長官からの話で山梨が動くということにして欲しいとの話でありました。
山梨が朝融王のことから手を引いてしまうというような様子はありませぬゆえ、新長官が山梨を訪問して敬意を払いお頼みしますれば、順序の問題も解決し従来通りになるのではないかと存じます。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年1月22日
松平官長に久邇宮朝融王の事件、手形と渡米話す。
手形の山口清も渡米案を持つこと聞く。

1953年6月16日
山梨大将より電話「久邇宮朝融王より新印形預かりし」と。
柔らかな例の調子にて話せし様子。
後難を残さねば幸せ。

1953年8月21日
山梨大将訪問。
久邇宮朝融王、高利貸の話。
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『入江相政日記』侍従長

1954年8月19日〔北海道行幸〕
久邇宮朝融王が松平直鎮子爵と本荘千代とかいう神がかりの女に囲まれてニセコに来られ御対面願いたいということなので、断然おやめ願うべきであると主張し、まず良子皇后の同意を得て、続いて昭和天皇のお許しも得て、北海道庁を通じて断っておいたのに、またいらっしゃるとのこと。
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