【スペイン~10】バルセロナ | 拓かれた時間の中で

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今日出会い、思い、感じたこと。一つでもよいから、「明日」の元気につながれば・・・。

現在のカタルーニャ独立運動については別に調べていただけばよいとして、バルセロナを含むカタルーニャは、先述の5つの区分けによれば「アラゴン王国」ということになる。


大雑把に書けば、711年のイスラムのスペインへの侵攻から100年も経ない801年、フランク王国のカール大帝がバルセロナを征服。その経緯からバルセロナを含むこの界隈は「マルカ・イスパニカ」と呼ばれるようになる。


その後、1064年、サンチョ・ラミレス1世は「我が王国は、ローマ教皇の臣下である」と突然宣言。さらに、彼の後を継いだアルフォンソ1世戦士王は、息子がいなかったことから「アラゴン王国を、テンプル騎士団とヨハネ騎士団に残す」という、十字軍への遺産相続という俄かに理解できない遺言を残す。


結局、1137年にブルゴスで開かれた宗教会議で相続問題が解決すると同時に、アラゴンとバルセロナ伯領とは連合し「アラゴン連合王国」となり、15世紀にはバルバレス諸島、サルデーニャ島、ローマより以南の南イタリア、シチリアを制圧し、まさに地中海を支配する国として、カスティーリャ王国などとは異なる方向へと独歩、拡張していくことになる。

 

批判を承知で書けば、私にとって、カトリックによる「宗教会議」や「十字軍」という言葉は、政治力による「聖書」の解釈の都合のよいねじまげの場と理解している。
以下、私論だが、テンプル騎士団やヨハネ騎士団とは別に、イエズス会がイグナチオ・デ・ロヨラによって16世紀に作られるわけだが、このロヨラが戦争で負った傷の療養中に「騎士道」の本と「聖書」のどちらを選択したかによって、世の中が大きく変わっていたのではないかと考えている。その時代に「ドン・キホーテ」が出版されていれば、ロヨラは「聖書」を選ばず迷わず「騎士道」に嵌り、またしても歴史上の「もし」の世界になるが、イエズス会による布教活動などは存在せず、日本におけるキリスト教の布教さえも行われなかっただろうし、極端に言えば第2次世界大戦に至る歴史上の問題は生じていなかったのではないかとさえ想像している。

 

話を戻すと、かようなローマカトリックと密接なつながりを持ち発展してきたアラゴンは、イスラムと戦いレコンキスタを成就させたカスティーリャ等の他のスペイン王国とはなぜ一線を画すことになるのだろう。
時代を下り、スペイン内戦における過程で、フランコ独裁政権は「カトリックを国教とする帝国を目指す」といいながら、カタルーニャの弾圧を繰り広げ、新約聖書に忠実であったはずのガウディの書いた「聖家族贖罪聖堂=サグラダ・ファミリア」の設計書や模型を徹底的に破壊していく有り様は、これまでのアラゴンと非アラゴンとの関係から見ると矛盾しているのではないだろうか。

 

「サグラダ・ファミリア」の建築には福岡出身の外尾悦郎(そとお・えつろう)さんという日本人が関わっていることは、皆さんご承知のことと思う。
その著書「ガウディの伝言」を読むと、その辺りがよく理解できるのだが、バルセロナ・オリンピックを境に、世界の人々がサグラダ・ファミリアやその建築に携わるガウディに興味を持ちはじめ、観光客が増加し、建設収入も増えているようだ。
まさにサグラダ・ファミリアの建設は順調に進み、他のスペイン諸都市が歴史的に「静」の環境にある中、バルセロナはダイナミックな「動」の環境におかれていることを、今回の旅行全体を通して一層理解を深めることができた。

 

 

 

ところで、映画「イル・ポスティーノ」の主人公でもあるチリの詩人パヴロ・ネルーダ。
彼がここバルセロナに滞在していた記録は、ネットを調べたりしてみてもいつ、どこにという事実が明確には発見できないのだが、私は偶然ディアグナル通りとレパン通りの交差点付近にある壁画が描かれた建物の右裏側に、「パウロ・ネルーダ」と書かれた看板を見つけてしまった。
ランブラス通りとは若干距離があるものの、パヴロ・ネルーダはサルバドール・ダリと同じ1904年の生まれであることから、ランブラス通りについては謳っているネルーダのことだから、その場所から程近いサグラダ・ファミリアの状況も垣間見ていたのかも知れない。

 

 

「新約聖書」を信じるか信じないかは別として、これ程のものを創るということを人間が時代を超えて成し得るということは、実際に建築途上の教会を観るだけで「圧倒される」という以外、表現する言葉を失わざるを得ないということも、また正直な感想でもあった。