おさらい。 | 孤高の珈琲人

孤高の珈琲人

京都市で自家焙煎「珈琲だけの店」windy(ウインディー)を1972年から営業しています。

windy outsider coffee

 

自分のたてたコーヒーには、自信をもって診断を下したい。自ら味覚を信じ、つくられたコーヒーの質を探る、味についての厳しい評価をすること、いつも、そういう習慣を身につけることが最も大切である。
すなわち、ある味が生まれた・いきさつ・について、少なくともコーヒーをたてた当人は、だれよりも一番よく知っているであろう。だから因果関係を考えることは、かなり容易にできるはずである。
そのように、鑑定の結果を、常に原因にさかのぼって思いめぐらし、貴重な一つのデーターとして役立てる。こうした習慣と体験の積み重ねで生まれたコーヒーの味こそ、その人の個性を表現する。従って、いつも安定したよいコーヒーをたてる人は、自分のコーヒーに託し、味で個性を表現できる人である。
味覚でとらえたコーヒーの特徴を、よきにつけ、悪しきにつけ、原点にかえって吟味し、特に欠点についてはその原因を徹底的に探り、次回へのステップとして、技術向上に生かすことが望ましい。
もう一つ重要なことをつけ加えよう。いつも最高のコーヒーを口にすることを心がけたい。絵や音楽など、ふだん最高の芸術に接することは、自分の審美眼を育てるのに大いに役立つのに似ている。
まずいコーヒーで飼いならされると、不思議なことにそれに慣れ、オーソドックスな味と錯覚され、感覚を麻痺させる。近来特に問題だと思うのは、味覚の飼いならしである。いわば味のマスプロダクションともいうべきものでインスタント食品の(そのすべてとはいわないが)ある種のものは、食品の味を大衆の好みに近づけるのではなく、むしろ大衆の味覚を食品に合うように改造しようとさえする。しかも、それがいくらかの効果をおさめていることを見逃すわけにはいかない。恐るべきことだが現実にそうである。現代はまさに「味の画一化」、「味の個性喪失の時代」であろう。それなるがゆえにいっそう手作りの味。素朴な伝統的な味を守り育てたいと思う。常においしいコーヒーを、そして、いつも、より高い質のコーヒーへと志向するかたくななまでの執念を捨ててはならない。
本当の味がわからない人に限って強引に自己を主張する。「嗜好は、人それぞれのものである」と反論し、「嗜好に個人差はつきものだ」と譲らない。しかも「これが私の好み」と最後の切り札を出す。
しかし、次のことを忘れてはならない。
ある人はAのコーヒーを、別の人はBのコーヒーを支持したとする。当然そのように好みが異なることもあろう。だが、それはあくまでAとBが、性格は異なっても共に水準以上の場合に限る。それでもなお、二者択一の必要に迫られれば、たいていの場合優劣がつくものである。もし、味に客観的な一つの判定が成り立たなければ、コーヒーテストマンはいらないであろう。
事実、優秀なテストマンの下した判定は価格や需要に絶大な影響力をもっているし、かなりいい線で一致した判定に落ち着いている。好みは押し付けられるものではないが、「よいもの」と「悪いもの」は、はっきりしていなくてはならない。
・化学的に味のこわれているものは・好み以前の問題であって、決して可とすることはできないのだ。
まず謙虚に、いつもこれでよいのかと考えるゆとり、本当の味を知ろうとする飽くことなき根性に徹するしかない。
やはり、コーヒーに携わる人の熱意や人柄が根底にあってこそ本当の味が生まれる。
コーヒーに愛情と関心をもつことから味を知り、味がわかれば、技術も向上し、理論も生まれてこよう。
結局、味をつくるものは心であるという点に帰着する。

 

珈琲研究家 伊藤 博  著書 珈琲探索より引用