人と人は、それぞれ全く違うことを考えている。
だから、言葉に対する反応も、”間”も、価値観も、全て違うのです。
でも、人は、一人では生きいけません。
誰かと一緒にいたい。
その誰かと一緒にいたいから心を通い合わせたいと願う。
わたしと奥さんは25年間、一緒に住んでいます。
交際期間を合わせるともう29年間です。
もちろん、心を通い合わせたからこその結果です。
今思えば、ただの勘違いだったのかもしれないけれど、お互いに、
「心を通い合わせたい」
そう希望し、努力し、
「この人とだったら心を通い合わせることができる」
そう信じたからこそ、結婚というスタートラインに立てたのです。
全くの他人に比べれば、何を考えているかはわかることが多い。そこは間違いないと思います。
だからと言って、
相手のことをわかった気でいるのは、大きな間違いです。
全く話が通じないなんてことは日常茶飯事なのですから。
わたしと奥さんが一番喧嘩するパターンはこうです。
家族の決め事で、わたしの意見に対し、
奥さん「うん。そうだね。そうすれば」
そう言うし、大事な家族の決め事ですら、
奥さん「あなたのやりたいようにやれば」
そう言ってくれます。あまり反対しません。
でも後になってそれが間違いだとわかった時、
奥さん「だからわたしは反対だった」
そう言います。
わたし「あの時、やりたいようにやればと言ったじゃないか!」
わたしがそう言うと、
奥さん「だって反論してもどうせやりたいようにやるじゃん。でもわたしは反対だった」
わたし「今頃になって自分には責任がないようなことを言うのは卑怯だ!」
奥さん「じゃあ、あの時反論していればよかったの?」
わたし「当たり前だよ!」
奥さん「言ってもどうせ聞かないじゃない!」
わたし「言わなきゃわからないじゃないか!」
奥さん「言わなくてもわかるから言わないんでしょう!」
わたし「俺の何がわかるんだ!」
奥さん「わかるよそれくらい!29年間ずっとそうじゃない!」
こんなやり取りになってしまいます。
だからと言って、夫婦としてこれがダメなのか?
いいえ。
「これが夫婦だよ」
胸を張ってそう答えるでしょう。
つまり、
人と人は、常に、
微妙な距離を測り、二人の間に漂う空気を感じ、相手との間を計算し、お互いがなるべく真摯に正直に向き合えるように、できれば角が立たず、穏やかな雰囲気のまま会話を続けていたい。
そう感じているのです。
だから、29年も同じことを繰り返していると、このあと、このようなセリフが続くことになります。
奥さん「わかるよそれくらい!29年間ずっとそうじゃない!」
わたし「たしかに・・・」
奥さん「でしょ!」
わたし「でもさ〜。それでも言って欲しいんだよ!」
奥さん「何それ?だって結果は同じじゃん。疲れるんだよね。同じこと繰り返してるばかりで」
わたし「だってそれが夫婦じゃん」
奥さん「たしかに・・・」
わたし「言い争いができなくなったら一緒にいる意味ないじゃん。喧嘩って、わかりあえない箇所の確認でもあるんだよね〜」
奥さん「都合のいいように解釈するね」
わたし「都合のいいように解釈できなくなったら終わりだよ」
奥さん「たしかに!じゃあ、謝って」
わたし「それとこれは別だよね!」
奥さん「一緒だよ。謝って!」
わたし「だってお互い様じゃん。なんで謝らなきゃいけないの?」
奥さん「いいから謝って。そうじゃないと終わらないから」
わたし「終わらせたいならそっちが謝りなよ」
奥さん「はあっ!バッカじゃないの」
わたし「バカぁ!?・・・たしかに。俺たち相変わらずバカだね〜」
奥さん「たしかに!」
これ、月一ペースで必ず起こります。
その横で、娘は歌を歌いながら算数の問題を解いてます。
要は、コミュニケーションってこういうくだらないやりとりの集合体なんですよ。
でも、くだらないやりとりですら、諦めてしまったらできなくなります。
人と心を通い合わそうとする気持ちを諦めてしまったら、終わってしまうんです。
「そんな面倒臭いことをいちいち考えて生きてるんですか?辛くないすか?面倒臭いですよね。正直、うざいです。人に迷惑をかけてなかったら別に良くないですか?自分さえよかったらそれでいいと思うんですけど」
同じような話をした時に、わたしより20歳以上若い人に言われた言葉です。
「自分さえよかったらそれでいいの?」
「だって、よくありません?別に人に迷惑をかけるわけじゃないんだし」
「でも、結果、迷惑をかけている場合があるって思わない?」
「でも、それは相手が勝手に思っているだけでわたしが迷惑をかけたわけじゃないから関係ないですよね」
「・・・・・でも、自分との会話の中で何が相手の機嫌を損ねたのだろう?とか、考えない?」
「別に・・・。それが自分にとって困る相手だったら考えますけど」
「どういうこと?」
「例えば、家族とか、恋人とか、友達とか。自分に直接深く関わっている人が相手だったら考えますよ。でも、仕事でいちいちそんなことを考えてら疲れますよね。うざいし。面倒臭いです」
「つまり、嫌われたくない相手だけに気を使えばいいと?」
「いけませんか?」
「いけないと俺は思うけど」
「でもそれは風さんの価値観であって」
「まあね。でも、人の価値観だからって関係ないってことにはならないよね」
「もちろんそうですけど。そういうことをいちいち考えて生きていくのが面倒臭いじゃないですか」
「やっぱり面倒臭いんだ」
「面倒臭いでしょう〜」
「でもそこを諦めたら相手のこと何もわからないよ」
「わからないくてもいいんじゃないですか?別に自分にとって大事な人じゃないんだから」
「大事か大事じゃないなんてその時点ではわからなくても、その先には大事な人になるかもしれないわけだよね」
「だから〜、そういうのがいちいち面倒臭いんですよ〜。そもそも諦めるって、何を諦めるんですか?」
「コニュニケーションだよ。コミュニケーションを諦めたら、何も変わらないんだよ」
「風さんがおっしゃりたいことはわかりますけど、でも、そういうのって本当に面倒臭いんですよね」
「人と話すことってのは、すべからく面倒臭いんだよ」
「でしょう?だから避けたいわけですよね。それがいけないんですか?」
「相手のことを思ったら避けては通れないはずなんだよ。面倒臭くてもしっかり向き合うことが大切なんだよ。それはいずれ必ず自分のものとなる」
「・・・・あ〜、面倒臭い」
では、
コミュニケーションを諦めるって、どういうことを言うのでしょう?
みなさん、気づいておられないかもしれませんが、今、世の中には、コミュニケーションを諦めてしまった人がたくさんいます。
その結果、どうなってしまったか?
「いくらこっちが真剣に話しても全く言葉が通じない」
そう感じることがものすごく多くなってしまいました。
詳しくは、次回にお伝えしたいと思います。
