中国の戦国春秋時代。



孟嘗君という人物がいた。




食客3000人を養って権威を誇っていた斉(紀元前1046年~紀元前386年。)の宰相(中国において君主の政務を補佐した最高位の通称。)だったのだが突如として罷免された。



※食客中国の戦国時代に広まった風習で、貴族たちが才能のある人物を客として遇して養う代わりに、主人を助けるというもの。)

すると食客たちは、すぐにいなくなってしまった。



孟嘗君は激怒したが、側近に「君がくれる利に、彼らはひかれて集まってきたのです。どうかお怒りを静めてください。」とたしなめられた。というエピソードがある。



「人は自分の利益を優先させて動く。」という当たり前の原理原則を、時として忘れてしまう。

この感覚を持ち、世の中を見渡せばいろんな事が見えてくる。

みなさん、こんばんは。ひろです。


札幌の第三回定例市議会で「子どもの権利条例」案が可決した。


内容は?と言うと「子どもが安心して生きる権利」、「自分らしく生きる権利」などが盛り込まれている。また、子どもが権利侵害を受けた場合、調査や勧告を行う救済機関もある。と新聞にのっていた。


子どもが自分らしく生きる権利って一体なんなのだろうか?


おそらく個人を尊重して子どもにも自由で平等な権利をと言うことなのだろうけど、少し調べてみると

「自分に関係することを、年齢や成長に応じて、適切な助言等の支援を受け、自分で決めること」、「自分の意見を表明しその意見を尊重させること」なども権利らしい。


という事は、「子どもにも自己決定」をさせるということになる。


大人でも自らの判断によってヒドイ目に遭う事はけっこうある・・。


きっと、この権利を利用して操ろうとする大人達も出てくると思う。


権利侵害を受けた場合の調査、勧告を行う救済機関の存在も気になる。


みなさんはどう思いますか?

みなさん、こんにちは。ひろです。


エキスパートと自他共に認める人は、少なくても「俺が一番」と思っている。と思う。


 

謙虚さを持ち合わせているエキスパートでも、「俺より上はそうはいないだろう」という程度には自覚していると思う。



「上には上がいる。」


この自覚のある、ないで他人を認めるか認めないかの違いにもなってくると思う。



上には上があると思えば、他人を受け入れる気持ちの範囲は広がるし、自分が一番ならそれは狭まると思う。



自分が一番の延長線上にあるのは、自分と違った者の排除だと思う。




だけど、みんながエキスパート感覚(俺が一番、われこそが正義みたいな感覚)を持って、他人を批判し、排除しにかかる社会が果たしてまともだろうか?



違う者がいて当然と受けとめるほうが、ずっとまともだと思う。

 

みなさんは、どう思いますか?