不完全な切り紙細工 -29ページ目

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 颱風直前の大池の水はどこかいつもと違っていたと思う

 季節ごとに変化して当然の水なのだが

 この変化は単に物理化学的変化ではなく

 そこに生き物が介在している変化だという思いがつのっていった

 赤潮みたいに目立ってプランクトンが増えている

 というわけでもなさそうだったが水は滑っていた

 粘度を増して跳ねる水も飛沫より大粒になりがちだったなと思う

 おそらくは目に見えない栄養分の多い

 つまりは下手をすれば腐りやすい水だったのかもしれない

 少なくとも夏は微生物も含めて

 多くの生き物たちにとって繁栄の季節なのだ


 けれど何故かその割に水は澄んでいるように感じられた

 アクアリウムの水槽の水も実は

 澄んで綺麗に見えるとき水の純度が高いとは限らない

 栄養分や老廃物が増えてもそれを分解するバクテリアの力が

 それに応じて強ければ水は浄化されるのだ

 そういう水はどこかコッテリしているが同時に澄んでいる

 もしかしたらそういうことだったのかもしれないと

 後から思った



 この池は鷺が集まってくるだけに

 海老や昆虫類だけでなく魚類も多い

 散歩をしていると季節を問わず何かの理由で死んだ魚が

 岸に打ち上げられているのを見かけることがある

 あるいは水から酸素を求めて飛び上がる魚影に

 後から気づくこともある


 ちょうどカイツブリの一家のところから十数メートルも行ったところで

 ゆるやかな水紋が浮かぶのを見た

 またカイツブリかと思ったが急浮上してくる影はない

 影はないけれど何かが水面下を進んでいくのが

 水の表にできる微妙な模様で感じ取れる

 こういう微妙さがわかるのも今日の水質のせいかもしれなかった


 鯉に似ているので

 どうやらフナだろうか

 水は澄み切ってはいないから

 なんだか泥の中にいる魚が見えているようでもあった





 しかし

 見え隠れしながら泳いでいたらしい魚がひょいと

 水面に顔を出す

 浮いていた草を食べるのか

 口を大きくパクパクさせて草に食いつこうとしている

 いや激しい捕獲の動きなのではない

 まるでちょっとストローに口をつけて

 何かを吸い込もうとするような





 そして

 やがて草は水深く引きづりこまれて行った

 ほとんど無音の

 そして感覚的には無時間に思えるような

 ぬるぬると進む時間の中で

 魚は茎を沈めていった





 水清ければ魚棲まず

 いわゆる寛容の必要を説く漢だったかの時代の言葉だ

 日本だとこれがなぜか

 魚心あれば水心

 とかいう言葉に連なって悪代官と強欲商人の話になっていくのだが

 もともとは余りに清廉潔白であろうとすれば

 勢い人にもそれを要求し人の反感を買って

 やがて孤立するというような意味だったのだ

 確かに純水の中で生きられる魚は居ない


 それだけでなく

 僕はときどき思うのだけれど

 金魚だって水槽の中で身を隠す場所もなく

 ただただ透き通った水の中に飼うとノイローゼになるとも言う

 つまり

 生き物には見えない場所や見えない部分が必要で

 そこに余裕というか身を隠せるということが

 生き物の救いにもなるということを

 言っている故事成語なのではないかと勝手に考える


  水澄まば生きどころなし夕まぐれ


 さてこの日

 日頃この池では見かけないものをもう一つ見た

 亀の泳ぐ姿だ

 亀がいることや甲羅干ししている姿は見かけるのだが

 これほど水の中の手足までがよく見えたという経験はない

 少なくともこの池では





 おそらくこれは外来種の

 というかもはや日本中に分布しているだろう

 ミシシッピーアカミミガメだろう

 岸からかなり離れたところを

 まるで気ままに海水浴を楽しむ人間みたいに

 ゆっくりと泳ぐともなく泳いでいた

 ときには足の動きを止めたまま

 波間に浮かんでいるのを楽しんでいるようですらあった










 亀はノロマの代名詞にされているけれど

 実はかなり早く走るし泳ぐこともできる

 ましてや餌になるものに食いつくスピードは恐ろしいほどだ


 そういうことを知っているので

 こうしてのんびりと夏の水を楽しんでいるように

 浮かんで揺れている亀を見ると

 不思議な気がしてくる


 魚心あれば水心

 逆に

 水心あれば魚心

 とか言う例もあるけれど

 もともとは

 魚がその水を愛して棲めば

 本来は生き物でない水も魚を愛して迎え入れる

 というような意味なのだと聞いた気がする


 ならば

 今

 この外来種のタートルはこの池の水を愛し

 そして池の水に愛されているのに違いなかった


 この水辺では時間の進み方が

 どこかでおかしくなっているのだろう

 この僕も明るさに惑わされて歩き続けていたが

 時間を確認するとなんともう19時を過ぎていた


 時間

 これほど不可思議なものを僕は知らない

 そしてそれは

 夏の盛りに突き進む颱風直前の水辺では

 沸き返る熱と風の勢いのせいなのか

 僕の想像を遥かに超えていた