
颱風直前の大池の水はどこかいつもと違っていたと思う
季節ごとに変化して当然の水なのだが
この変化は単に物理化学的変化ではなく
そこに生き物が介在している変化だという思いがつのっていった
赤潮みたいに目立ってプランクトンが増えている
というわけでもなさそうだったが水は滑っていた
粘度を増して跳ねる水も飛沫より大粒になりがちだったなと思う
おそらくは目に見えない栄養分の多い
つまりは下手をすれば腐りやすい水だったのかもしれない
少なくとも夏は微生物も含めて
多くの生き物たちにとって繁栄の季節なのだ
けれど何故かその割に水は澄んでいるように感じられた
アクアリウムの水槽の水も実は
澄んで綺麗に見えるとき水の純度が高いとは限らない
栄養分や老廃物が増えてもそれを分解するバクテリアの力が
それに応じて強ければ水は浄化されるのだ
そういう水はどこかコッテリしているが同時に澄んでいる
もしかしたらそういうことだったのかもしれないと
後から思った
この池は鷺が集まってくるだけに
海老や昆虫類だけでなく魚類も多い
散歩をしていると季節を問わず何かの理由で死んだ魚が
岸に打ち上げられているのを見かけることがある
あるいは水から酸素を求めて飛び上がる魚影に
後から気づくこともある
ちょうどカイツブリの一家のところから十数メートルも行ったところで
ゆるやかな水紋が浮かぶのを見た
またカイツブリかと思ったが急浮上してくる影はない
影はないけれど何かが水面下を進んでいくのが
水の表にできる微妙な模様で感じ取れる
こういう微妙さがわかるのも今日の水質のせいかもしれなかった
鯉に似ているので
どうやらフナだろうか
水は澄み切ってはいないから
なんだか泥の中にいる魚が見えているようでもあった

しかし
見え隠れしながら泳いでいたらしい魚がひょいと
水面に顔を出す
浮いていた草を食べるのか
口を大きくパクパクさせて草に食いつこうとしている
いや激しい捕獲の動きなのではない
まるでちょっとストローに口をつけて
何かを吸い込もうとするような

そして
やがて草は水深く引きづりこまれて行った
ほとんど無音の
そして感覚的には無時間に思えるような
ぬるぬると進む時間の中で
魚は茎を沈めていった
水清ければ魚棲まず
いわゆる寛容の必要を説く漢だったかの時代の言葉だ
日本だとこれがなぜか
魚心あれば水心
とかいう言葉に連なって悪代官と強欲商人の話になっていくのだが
もともとは余りに清廉潔白であろうとすれば
勢い人にもそれを要求し人の反感を買って
やがて孤立するというような意味だったのだ
確かに純水の中で生きられる魚は居ない
それだけでなく
僕はときどき思うのだけれど
金魚だって水槽の中で身を隠す場所もなく
ただただ透き通った水の中に飼うとノイローゼになるとも言う
つまり
生き物には見えない場所や見えない部分が必要で
そこに余裕というか身を隠せるということが
生き物の救いにもなるということを
言っている故事成語なのではないかと勝手に考える
水澄まば生きどころなし夕まぐれ
さてこの日
日頃この池では見かけないものをもう一つ見た
亀の泳ぐ姿だ
亀がいることや甲羅干ししている姿は見かけるのだが
これほど水の中の手足までがよく見えたという経験はない
少なくともこの池では
おそらくこれは外来種の
というかもはや日本中に分布しているだろう
ミシシッピーアカミミガメだろう
岸からかなり離れたところを
まるで気ままに海水浴を楽しむ人間みたいに
ゆっくりと泳ぐともなく泳いでいた
ときには足の動きを止めたまま
波間に浮かんでいるのを楽しんでいるようですらあった
亀はノロマの代名詞にされているけれど
実はかなり早く走るし泳ぐこともできる
ましてや餌になるものに食いつくスピードは恐ろしいほどだ
そういうことを知っているので
こうしてのんびりと夏の水を楽しんでいるように
浮かんで揺れている亀を見ると
不思議な気がしてくる
魚心あれば水心
逆に
水心あれば魚心
とか言う例もあるけれど
もともとは
魚がその水を愛して棲めば
本来は生き物でない水も魚を愛して迎え入れる
というような意味なのだと聞いた気がする
ならば
今
この外来種のタートルはこの池の水を愛し
そして池の水に愛されているのに違いなかった
この水辺では時間の進み方が
どこかでおかしくなっているのだろう
この僕も明るさに惑わされて歩き続けていたが
時間を確認するとなんともう19時を過ぎていた
時間
これほど不可思議なものを僕は知らない
そしてそれは
夏の盛りに突き進む颱風直前の水辺では
沸き返る熱と風の勢いのせいなのか
僕の想像を遥かに超えていた

