『砂に描く』を書いたとき
僕は敢えて浜辺のイメージに置き換えてしまったけれど
もともと僕が思い起こしていたのは
違う砂だった
黒い漆器の楕円か四辺形の盆に
さまざまな大きさの真っ白な砂を打って景色を描く
元々は中国から渡来したものと言われる盆石
時には名のごとく石を置くが主体は砂だ
小さいとき多分小学校かそれ以前のことだ
親戚の家の茶室を囲んだ離れの薄暗がりの廊下で
飾り棚の中段に置かれていた浜辺の景色
息を呑むほどに鮮やかな黒と白のコントラストだった
顔を近づけて見ているうちに気がついた
浜辺の砂が微かに動くのに
僕の少し高揚した息が揺らしていた
これは絵の具で描かれたものではないのだと
それがただひととき描かれてまた消される砂の絵であると
知ったときの驚きはおそらく死ぬまで忘れることのない
そしてただそれだけなのに僕の様々な人生の局面に
気づかぬうちに強く影響していたに違いない出来事だった
砂は篩を使ってゆっくりと静かに撒かれることもあれば
海の波 川の波 霞の姿 山並みを描くために
それぞれを描きやすい形と柔らかさの鳥の羽を使うこともある
雲間に浮かんだ月の光さえも白い砂で描かれる
箱庭やジオラマのようなものだとも言えなくはないけれど
深い漆黒の漆の水面を小石と真っ白な砂が覆うのだ
その覆い方だけによって百景万景が描かれる
それはある意味で
白地に墨黒々と描かれる墨絵のリバース・イメージ
言わば色のない色でない白で世界を描くことなのだ
それは確かに多少の絵心を必要とする典雅な趣味であり
今や家元制度の中で保たれる伝統になっているので
僕は自分の生きる生き方とは相容れないと
そう思ってただ眺めるだけに徹してきたのだろうと思う
だが何がきっかけになったのかはわからないが
ふと僕はまたその盆石の光景を思い浮かべて
もし自分がそれをやってみるとしたら
それはきっと何処にでもある海辺の砂の
流れ着いた木切れや貝やときには鋭利なままのガラス片で
灰色に濡れた砂浜に線を引き砂を立ち上がらせて
景色を描くことなのだろうかと
そんなふうに思いながら書いていた
けれど盆石の絵の具は白い砂
引っかき傷のような線の作る形とは全く別のものだと思うけれど
その美しさと典雅さは
僕の生き方と最後まで相容れないものなのだろう
砂曼荼羅のように盆石の縮景はひととき客をもてなすために
そこに描かれて客人の去った後にはまた
様々な大きさの目の篩に掛けられ選り分けられて元の砂箱に戻される
そのときそこにはもはや白砂の描き出した世界は見えない
けれど見えないからこそ
長い間じっと見つめた世界の残像が補色となって見えるのに似て
束の間のもてなしの心が去る客の脳裏に幾度も蘇るのにも似て
見えないがゆえにこそ鮮やかにこの白砂の絵は描き直されるのだ