ほんの少し前まで自信を持って何かをしようとしていたはずだった
それなのに今やもう一人のダフネはすっかり全身の力が抜けて
車の後部座席に押し込まれるままになっていた
Mが先に乗ってダフネ2を受け止めてくれなかったら
座席にそのまま頭から倒れ込みそうなほどだった
Mと僕の間に座ってからも2は上体がぐらついて
Mに寄り掛かかってしまい
目は開いているのに意識を失っているようにさえ見える
こんな状態で何かを買いにいけるのだろうか
そもそもその「何か」が問題だった
ダフネ2はかなりよく日本語を話し理解しているけれど
それでも日本人の同年齢の子が知っていて当然の単語を知らないこともあった
そのせいなのか
あるいは本当に何と呼ぶべきか僕たちにも分からない物を
目で見て探しだそうとしていたのか
その話を詳しく聞く暇もないままに
こういう事態になってしまっていた
「あの
余り関係ないこと聞いてすみません
この車の色
紺色ですよね」とMが突然運転席のGに聞いた
「はい
それが何か?」
振り向きもバックミラーを見ることもしないG
「いえ
先入観だと思うのだけど
こういう車って黒が多いのじゃないかって」
Mは『こういう』というところに妙なアクセントを置いて聞いた
きっと『どういう?』とGが逆に聞くように誘導しようとしているのかもしれない
この手の「すみません」から始まる誘導尋問はMの得意技の一つだった
この僕がそのいい証人だ
けれどこの屈強な運転手はそれには全く乗ってこず
「それほど目立たない色かと思います」とだけ言う
「あ
いえ私の好きな色なんです
でもこの紺色あまり車のカラーでは見たことがなかったから」
「そうですか
お気に召したのなら何よりです」
Mは「ああ ええ」と曖昧に答えたが諦めたらしかった
そんなに簡単な人たちじゃないんだよなと僕は頭のなかでMに言う
せっかく帰ってきてくれたMには状況を話さなければと思うのだけれど
現時点で何をどうすればいいかもわかっていなかったから
この込み入った話をどこから話したらいいものか
なかなか僕は決心がつかなかった
それにGは勿論僕たちにとっては頼れる人物なのだが
どこまでダフネのことを知っているのか
僕にはまだわかっていなかったから
車の中で何を話すべきか
あるいは話してはならないかも不確かだったのだ
「質問していい?」と今度はこっちを向いてM
僕が返事をする前にMが言う
「車に乗った 走りだした
私たち
目的地が何処かわからずに走ってるのかしら?」
「いやそれがね」と僕が言いかけると
それを遮って運転席からGが
「いえ 決まっています
ご心配なく まず花屋に行くことに」
意外だった
花屋?
ダフネ2はそんなことは一言も言っていないはずだ
だとしたらそれはあのひとが指示したのか
「初耳だけど」と僕が少し不満気に言うと
「申し訳ありません
そう指示されていますので
ご存知の花屋ですから」という応えが返ってきた
誰の指示か聞く必要はない
あのひとに決まっている
でも何故花屋なのかが分からない
「月桂樹に関係するのではないかと
花器かそうでなくても関連するものなら
花屋がいいと仰っていました」
「おじさまがなの?」とMが僕の方を見て聞く
「他に誰がそんなこと考えるさ」と僕
なるほどそれは推理と言えば推理だろう
けれど全く確証はない
「それだけじゃないですね
その理由?」と聞かざるを得なかった
「はい」と実にあっさり簡潔な答え
「それをお話する前に
と言いますか
話さなくても着けば
Kさんならお分かりになるだろうと言われました」
僕は少しムッとなって「わかりましたよ」とだけ言う
Gに腹を立てたわけではなかった
一体全体いつそんな話をあのひとはGにしたのだろうか
騒動の後にそんな機会はなかったはず・・・
だとしたらこの指示はこの騒動の前に既に伝えられていたのかもしれない
『え もしかして』そう言おうとしたが遅かった
相変わらずGは前を見たまま言う
「その前にお伝えしておきたいことが二つあります
あの朝
見失った車ですが
その
この子を連れ去ったように見えた女の車です
今朝近くで見たという連絡がありました
確認がとれたようです
先生のお宅の少し向こうの海岸沿いの墓地付近です
二つ目は」
「ちょちょっと待ってください
それって乗り捨てられていた?」
「いえ 走行中です
運転者は上からでは確認できていません」
「走行中? 上から?」と僕はつい大声で遮って聞いたけれど
Gはそれには全く答えようともせずに続けた
「二つ目は
部下のことですが
あいつは信頼できると考えます
少し驚いたようですが
見間違いするとは思えません
職務上鍛えられているので動体視力はかなりです
ですがそれ以上は・・・
ただ」
「ただ? ただ何ですか」
Gは今度は少し躊躇ったように見えた
気づかれないように深呼吸した感じだった
「Jさんが見られた臙脂色は
おそらく血痕ではないかと言っています
確認する手段はありませんが
それなりの経験はありますので」
「何ですって?!」とMは叫んだが
そのまま息を吸い込んでそれ以上は何も言わなかった
血痕という言葉は明らかに衝撃的だった
けれどそれに驚いただけならまだしも
来たばかりのMの
しかも日頃は使わない苗字までGは知っていたのだ
崖の上の家にやってきたときMは父親の姓を名乗ったので
あのひとが伝えたのかもしれないとは思う
しかしそれにしてもこの連中は
かなり詳細な情報を持っているに違いなかった
Mについてそうなら僕やおそらく
ダフネについても
そのことにMは気づいたのに違いない
いつもならこんなときでさえ何か言葉を弾きだしそうなMなのに
僕の方を少し驚いたような目で見ただけで何も言わなかった
こういう形で話は進むのだったのかと僕は思う
そうなのだ
青のチュチュとセットになっていた服は
少なくとも僕がバレ学校の校長から受け取った服は
上は極めて薄い水色かあるいは
ほとんど白と言ってもいい色だった
もう一着あるとしても
同じ色合いのセットである可能性が高いと思う
臙脂の部分はなかったはずなのだ
事実関係の中に何か
何か小さい問題点
僕の理解とは何処かずれた点がある気がしていた
それを今はっきりと指摘されたと思った
血痕?
ダフネ2とダフネの間にどのようなことが起きたのか
もしかしたらそれは
2がこれだけ力を失うほどのことだったのかもしれない
そうだとしたら
しかし冷静に考えると
Mがダフネを見たときにはまだダフネ2はそのことを知らなかった
そしてそのとき既にダフネは血痕の付いた服を着ていたのか
数十秒かの間
誰も何も言わなかった
沈黙を破ったのはGだった
冷静な言い方だったが妙にゆっくりと言ったように聞こえた
あるいはGはもともと単語を区切るように話すタイプなのか
「まだ確認できていないことが多いとは思います
思いますが
それなりの覚悟はしておかないと」
「えっ」とM
でもそれは
Gの言葉に対して声を上げたのではなかった
もうほとんどMの足の上に上体を投げ出していた2が
その言葉を聞きつけて気がついたみたいに
弾かれたように起き上がったからだった
MはGの言ったことに気付かなかったのか
それとも
聞きはしたが
それよりも自分に寄りかかっていた
もう一人のダフネの動きのほうがずっと重要に思えていたのだったか
支えようとして揺れる2の肩に触れ
少し慌てたようにMは言った
「凄く熱がある
服の上からでもわかるくらい熱い」