崖の上の影 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある

 
  
 「あの
  確かじゃないので
  私の目のせいかも
  上にだけは
  あと先生にも報告しますが
  他には言いません」
  
  Gの部下らしい男は今見たことにかなり動揺している
  無理もないことだった
  
  いや彼だけではない
  僕もMも動揺していた
  それぞれに違った意味であったかもしれないけれど
  
  Mはその様子から
  少なくとも目の前のダフネ2がダフネではないのかもしれないと
  考え始めたようだった
  しかしそうだとしても
  一体どういうことなのか理解できるとは思えない
  「突き落とした」としたら?
  どういうことなのかと色々な可能性を考えているだろう
  
  僕は今更ながら2とダフネの関係を考えていた
  2はダフネの身代わりになると言っていたけれど
  そして確かにそういう感触は次第に確かになってはいたが
  その言動を信じてよいという証拠はなかった
  ただ二人が酷似しているということ以外には
  もしかしたら2に悪意があるような場合には
  僕はそこまでも考えたけれど
  2の表情はそんな行動をした人間の表情には見えなかったのだ
  
  2の顔はもともとの白い肌がさらに透き通るように見える
  そして尚も動かなかった
  僕が近寄って「大丈夫か」と聞いたときにも何も応えずに
  じっと崖下を見ているようだった
  その思いつめたような視線のおかげで
  僕はまたあり得ないことを考え始める
  
  崖下に何かが見えたら
  そういう不安
  
  僕はそういう想像を振り捨てようと
  警備の男に振り返って聞く
 「その
  もう一人
  どんな子だったんですか」
 「どんなって
  同じです
  まるで像がぶれたみたいに同じ
  いや
  でももしかしたらその子より少し大きかったかもしれません
  この位置からだから確信は6割程度です
  それ以上は確認する暇なんかあったもんじゃなく」
  
  それ以上の情報は得られそうもなかったので
  僕は2の肩を抱きかかえるようにしながら
  家の方に戻るように促したのだけれど
  まるで2はそこに生えていた木のように動かなくなっていた
  
 「ダフネじゃないの?」とMが言った
 「いやそれは今どうこう言うと話がこじれそうな気が」と僕
 「どういう事実関係なのか私にはわからないけど
  説明してって言っても無理そうね
  いいわ
  少なくとも周りには誰の気配もないみたい
  連れて戻れないんならもう少しこっちに来たら」
 確かにそうだった
 2の立っている場所はもしものことがないではない場所だった
 「さあ 少しでいいからそっちへ」と2の耳元で言った
 
 崖下の海は灰色にくすんで波立っていた
 ここで何があったとしてもそれは今更取り返しのつかないこと
 今までと同じように起きてしまってからではどうにもならない
 幸いに覗きこんだ灰色の海と磯には人影らしいものはなかった
 
 こういうときはこれからを考えるべきなのだ
 「ほら 何か買い物をすると言っていただろ」
 そう僕が言うと2は思い出したかのように顔を上げて
 今走ってきた道をゆっくりと戻り始める
 表情は出かけようとしていたときとは異なって
 複雑な感情のミクスチャになっていた
 当惑 怒り 決意 諦め
 まだ12かそこらの少女の顔にこんなに複雑な表情が
 浮かぶものなのかと思ったほどだった

 Mが近寄って僕の代わりに2の腰に腕を回して歩き始めると
 2は少し穏やかな表情を見せたように思えたけれど
 それでも言葉はなく
 
 歩きながら僕は考えていた
 もし本当にMの見たのがダフネであったとしたら
 誰か他に
 つまりダフネを連れ去った女がいた可能性も低くはない
 連れ去っておきながら
 しかもそれはダフネを守ることなのだと2が言う通りなら
 ただ一人この崖の上に来させるはずはない

 僕はMに後ろから聞く
 「ねぇ ダフネの他に誰か居なかったかい」
 「車の中からだったから
  草の影とかにいたらわからなかったと思う
  誰かが居るはずだったの?」
 「いや それはただの憶測だけど
  ここに一人で居ることが少し合点がいかないとことがあって」
 「よくわからない」
 「そうだな Mの居ない間に色々なことがあったんだ
  それを一気に話すことは難しい
  今は買い物に行きたいと言っていたことをと」

 そのときMは振り向いて聞いた
 「双子なの?」
 「そうかもしれない」僕は曖昧な言い方をした
 そもそも僕にだって確かな説明をすることはできなかったのだ
 「いいわ」とM
 こういうときのMの口癖だと思う
 ある意味とても有り難い口癖だしMの性格を示す言葉でもあった
 僕が曖昧な言い方をしていることを感じ取った上で待つ
 知りたいという気持ちを少しの間でも抑えることができなければ
 この崖の上の家では暮らしていけない日々だった
 
 「買い物って街に行くつもりだったの
  何を買いに?」
 「いや 何をなのかわからないんだ それが」と僕
 「やれやれ ここは相変わらずなのね」とM
 そう
 意味は少し違うかもしれないけれど確かに
 何かが『相変わらず』なのだろう
 『相変わらず』という言葉の普通の意味とはほど遠いけれど
 
 ちょうどそうMが言ったとき向こうから
 少し早足にあのひとがGと歩いてくるのが見えた
 ユニィオも一緒だった
 ユニィオがなぜ僕たちを追わなかったのかが少し不思議な気がしたが
 ユニィオがあのひとにも懐いていたからかもしれないと思う
 
 「呼びにきたのでね」とあのひとが遠くから言う
 「ユニィオが吠えてきたのだ
  どうした?」
 ユニィオが?
 それはまた少し驚くべきことかもしれなかったが
 もういちいち詮索する余裕は僕たちにはなかった
 「ゆっくり話します
  いえ きっと報告があると」とだけ僕は答えた

 2はまだ何も言わない
 こうして無口になると2はほとんどダフネのようだった

 「出かけるのか」
 「ええ ちょっと
  でも少し混乱しているからどうするか」
 「ただいま また戻ってきてしまいました」と
 Mがあの人に向かって言う

 「おかえりなさい あなたがいればKも安心するだろう」
 そのやりとりから既にあのひとが
 スーツケースの主がMであることを知っていることがわかる
 「話は複雑になりかけているようでね」とあのひと
 「そうらしいですね
  そうじゃなかったら良かったと言いたいけれど」とM
  「ははは
   まあお母さんのイギリス暮らしの話でも聞かせてくださいよ」
 「はい 勿論 話は山のようにありますから」とM
 
 まるで何事もなかった
 平穏な田舎暮らしに
 イギリスの母親の元からMが戻ってきただけみたいに
 あのひととMは挨拶し合う
 いずれにしても
 ここしばらくの間に起きた出来事をMにも話さねばならなかった
 それは決して簡単な話ではないだろうと思う

 そのときMが言った
 「ダフネがここでもバレの練習始めたの?」
 「え どうしてそう思った?」と聞くと
 また信じられない答えが返って来た
 
 「だって綺麗な青のチュチュだったんだもの」

 そうMはこともなげに言ったのだった