ダフネ2が扉を開けると
隙間からMの顔が少しだけ見えた
それから
とてもお洒落とはいえないザックリしたコートと
ジーンズらしい片膝も
イギリスに行って帰るたびに
Mは少しずつ変わっていくんだなと思う
扉が開ききるとMはまるで
風に吹き飛ばされたは大きな葉のように揺れながら
勢いよく玄関に入ってきた
『やっと帰ってきたわ』とでも言うかと僕は思ったが
Mは入ってくるなり大きな驚きの声をあげた
「ええっ嘘でしょ」
Mは目の前に立っているダフネ2がダフネではないことを
それにしては余りにも姿が似ていることに
驚いたのだろうかと僕は一瞬思ったけれど
それが違うということははっきりしていた
いくらMでも2を見た途端にそこまでを察することは不可能だ
「どうかした?」と僕
「そこに居たのよ すぐそこ
なのにどうしてここにいるの」
そうMが言う
何だって?誰が?
僕の頭のなかの疑問符をよそに
Mが驚きの声をあげた途端
もっとMを動転させるようなことが起きた
「どこに?どこですか」と2が明瞭な日本語で言って
横をすり抜けざまMの腕を引っ張ったのだ
Mはもう少しで引きずってきたスーツケースの方に
後ろ向きに倒れそうになる
2は先日もコム・ゴギャンで僕をぐらつかせた
力加減というものを2は知らないのかもしれない
しかし引っ張られたことよりも
Mを驚愕させたのは2の言葉だったに違いない
それでもまだMは2がダフネではないという認識には
到底辿り着けそうもなかった
「え 何が 何処って何」
そういうのが精一杯だったが
このような状況にもかかわらずMはともかくも
ダフネの質問に素直に答えようとしたらしい
そういうやつなのだ
「だからそこの門からすぐの
海に降りる小径のところにいたでしょ
いくら素早いからって
近道?」
そうして玄関の外に引っ張りだされたまま
Mはそれ以上は何も言わなかった
2が凄いスピードで駈け出していったからだ
Mは背を伸ばしてじっと2の後ろ姿を見送る
今騒いでも何の役にも立たない
ダフネとの日々の中で
Mはどうすべきかを学びつつあったのかもしれない
このような場合に僕を質問攻めにはせずに
ダフネの動きを見定めようとする
それは以前のM以上にとても冷静な判断のように思えた
2は日頃の動きからは考えられない勢いで走っていった
ダフネは敏捷な獣のように走ったが
2はそれこそ今玄関に入ってきた葉が
吹き返されて飛んで行くように肩を揺らして遠ざかっていく
でもその少しユーモラスにも見える動きを
誰ひとりユーモラスだとは感じなかったと思う
それほどに後ろ姿の小さな肩が必死そうに見えたのだ
2が門を出ようとするとき
どこにいたものかスーツ姿の男がひとり現れて
落ち着いた様子で2に並走し始めるのが見えた
このまま2が走り続ければ彼は2を制止するかもしれない
おそらくMがタクシーを降りてここまで歩く間にも
誰かがMをじっと見ていたはずだった
制止しなかったのは連中がMのことを知っている
誰かが既にMの情報を周知させているからなのかもしれない
「私も行く」
そう言ってMが走りだしたので僕も走りだす
濃霧の日とは打って変わっていい天気だった
Mはこの状況をまずは頭のなかで自分なりに
理解しようとしているらしく
何も言わずに走り続ける
そういうときはMも寡黙だ
初冬の日差しの中を走りながら
僕は久しぶりのMの横顔を見る
元気そうだ
でも表情が出かける前のMとは少し違っている気がする
髪型のせいか
それともあまりしたことのない化粧でもしているからなのか
僕にはMの横顔がとても美しく見える
こんな顔立ちをしていたのだっけと思うくらいだ
余分な感情と表情を洗い落とした後のような
スッキリしたとでも言いたくなる横顔だった
だからといってMまでがM2になるわけもない
そう思って走り
走りながら僕は少し動揺する
ダフネが消えるというような出来事が起きてしまう現実なのだ
Mがまた別のMにならないという保証はない
けれどそんなことを言い始めたら
それこそ僕だってあのひとだって皆怪しくなってくる
ダフネだけが特別なのだと思いたかった
Mが言ったことから判断すれば
小径の辺りにいたのはもうひとりのダフネなのだろう
2を見てああ言ったのだから
それなのに僕自身はどういうわけか
必死に走ってダフネを探すというような気持ちにはなれなかった
ダフネを忘れたとか忘れようとしているとか
そんなことでは全くないのだが
すべてが皆幻覚のように起きるのなら
さっきそこにいたというダフネもまた幻覚のひとつに過ぎず
僕らが走って辿り着く頃にはまた霧のように消えているだろうと
隣で聞こえているMの正確な息遣いだけは幻覚ではない
もっと穏やかで確かな現実であるはずだと
そう僕は望んでいたのかもしれない
小径への降り口に2が立っているのが見えた
海風が吹き上がってきているのか
2の髪とスカートが広い道の方へ靡(なび)いていた
2だけが立っていて
やはりそこにダフネは居なかった
また幻覚だったのだ
そう僕は考えようとしたけれど
でもその幻覚のダフネを見たのは
今回は僕たちではなくここしばらく此処には居なかった
しかもかなり現実主義者のMだった
その事実が
次第に明瞭に僕の思考の中に大きな位置を占め始める
つまり
つまりこれは幻覚なんかではなくてMが見たとおり事実なのだとしたら
消えたダフネがここに現れて
そしてまた消えたということを認めなくてはいけなくなる
そうなのか
そうだとしたら
僕は2よりも早く2よりも必死に駈けてここまで来るべきだった
ダフネの腕をしっかりつかんで離さずにおくために
2はじっと黙って立っていた
おそらく2が予想したとおりだったのだろう
2はそこにダフネが居ると確信して走りだした
けれど
行き着く頃には居なくなっているかもしれないとも
思っていたのだろう
落胆したようには見えはしたけれど
これは彼女にとって不可避な
想定内のことだったように思える
そういう表情だった
少し俯き加減の2は
事実を受け入れようとする者のように
何事か決心した者のように唇を噛み締めていた
それでも一方で
2は何か僕の知らないことを確かめようと
ここまで走ってきた
そういうことだったのかもしれないと思う
2から数メートル離れて立っていた
Gの部下らしい男の方に僕は目を向ける
僕と同じくらいの年齢だろうか
その顔を見て僕はギクリとなる
僕が聞く前に彼は言った
「居ました 居たんです
その子が いやその子のもう一人の
先日の
車に乗せられた
いや間違いなく」
それが消えたと?
それならもう驚くべきことではなかった
またしても同じことが起きたに過ぎないからだ
不意に波音が崖の上まで上がってきた
風向きが変わったのか
下が海であることは事実に違いない
今日は波が荒れているのかもしれない
そう思った途端に別の不安が僕の頭をかすめる
浜に降りる小径は急坂でところどころは
ほとんど崖のようになっている
途中で何かに躓(つまず)いて足を踏み外すことは
十二分にありそうな場所だった
けれどダフネも僕もMもまたそんな目に合わないだけ敏捷だった
男の表情がこんなでなかったら
不安の一欠片も感じはしなかっただろう
けれどチームの一員らしい男の表情が僕を不安にした
まるで今そこで交通事故が起きて誰かが死ぬのを目の当たりにしたような
驚きと恐怖が入り混じった表情で男は立っていたのだ
そして彼は深く息を吸い込んでから咳き込むように言った
「いや違うかもしれない
わかりません
肩に手を伸ばしたら
居なくなった
何だかよく・・・」
「え誰?誰のこと」とMが甲高い声で聞く
「その子がもう一人を
そっくりの子をそこから突き落としたのが
見えたんです
いや突き落としたように見えた」
そう男が答えたとき
風が金切り声のように高く尾をひいて鳴った
2は黙ったまま動かなかった