春雷 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある

 夕刻
 突然の雷雨

 久しく聞かなかった大音響だった
 雨もひとしきり豪雨のように降る

 部屋にいると
 パジャマだけで全く寒くない
 それどころか身体が空気に熱せられるようにさえ感じる

 疑いようのない春
 花開き万物が伸び上がる季節だ

 春雷と雪崩れたように降った雨は三十分もたたないうちに
 静まり返る

 此処しばらく僕は世の中のことがひどく疎ましい
 疎ましいというより世の中の不安定さを
 どうしようもなく崩壊しかけているように感じる

 春だ
 春だと皆言うし僕もまた
 空気にも自分の身体にも春を感じるけれど
 この社会
 日本という奇妙な国は春を謳歌できるのだろうかと

 軋み続ける社会
 どこか誤った方向にずんずんと進んでいくような

 だからといって今そこに厄災があるということでもないのに


 僕はここしばらく奇妙に落ち着かず
 これもやっておかなければ
 あれもやっておかなければと浮き足立っている気がする

 僕と僕の周囲
 さまざまな変化がはっきり兆して
 ある日突然春雷の如くに
 空気を引き裂いて夕闇を稲妻が走るような

 こういう不安を僕が抱くのは珍しいことなのだ
 しかも明瞭な理由もないのに


 トーマス・マンは「ヴェニスに死す」の中で
 春を呪っている
 いや呪うという言葉は過剰かもしれない
 春を愛しながら
 春に突き動かされ迷わされることを疎ましいと

 春を謳歌し春のように花開くことを望まないのか

 春のように生きればやがて終わる季節に立ち会わねばならない
 マンの春への暗い思いは
 結局はどこかで崩折れることへの予感に耐えられないという
 そういうことだったのではないのか

 自らが春の只中に進むことを怖れるという


 おそらくは
 それはただ季節の
 暖かくなり新陳代謝が一気に増して
 身体の中から変化の声がするからなのだろう


 超えていかなければならないものがあるとすれば
 それはただそういう
 季節の移り行き
 時間の進行だけに過ぎないはずだと



 春や春
 極まり行きて
 春の向こうにはどんな潮騒と
 どんな海風が待っているのだろう

 奇妙に恐ろしい春宵を
 何と思って過ごそうか