「夏前の霧より少しはマシかと思っていたが
そうでもないか
少し寒くなってきたので何か羽織ってこよう」
あのひとはハクに目もくれずに立ち上がって二階へと上がっていった
「あの御仁には俺は見えんよ」とハク
「少なくとも話す兎は見えないな
ただの兎はどうか知らんが」
これだけはっきりとそのことにハクが触れたのは初めてだった
「そうなのか
鳥たちの影絵は見えていたのに」と僕が言うと
「混同しては困るな
そりゃあんたにとっては何もかも幻覚か何かみたいなもので
ひとくくりでちょんかもしれんがね
この子のやってることと
俺があんたに何かを話すこととは直接関係はないんだよ」
新しい情報だなと僕は思う
そもそもハクはダフネに現れた
いやそれも何かの偶然だったのかもしれないが
でも少なくとも僕に会いに来たとは思えなかったし
ここしばらくはダフネ2と親しげに話しこむ姿しか見ていない
だから僕はハクが
何かダフネに関わる存在なのだろうと思い込んでいたのだ
けれどこうやって「関係ない」と言われてみると
確かにどこか筋違いなところもあった
「でもな
この子と親しげに話し合ってるみたいだったから
何か深い関係があると思っていたのだが」
「そりゃまあ 以前の俺ともうひとりの
あの月桂樹の娘なら関係がないわけでもないのだがね」
「この子は違うと?」
「まあ あまり聞いてくれるな
物事はえてして込み入っているもんなんさ
おれはただこの子につかまって
いろいろ聞かれていただけなのさ」
「何をだい?」
「何をかって?そんな重大な問題を俺に?
この子に聞いたらいいだろう」
そう言うとハクはダフネ2の方を見てニヤリと笑いかけた
ダフネ2はそう言われて極めて冷静そうに言う
「時が来たら話すつもり
というかどうしたって話すことになる」
つまりはまた
お待たせなのだなと思う
そう思うと急に腹が立ってくる
「何もかも宙ぶらりんでわからないことだらけ
いったいいつまでこうして・・・・・」
そこまで言いかけたとき
あのひとが戻ってきて言う
「すまんな 私にとってもまだ不明瞭な内に
ああだとかこうだとか言えないのだ
だいたいこの子がダフネなのかどうかだって
私には定かに判断できていない
不思議な力があるという点では同じなのかもしれないが」
「もういいですよ
なるようにしかならない
そういうことですね」と僕
一体全体みんなどうかしたんじゃないだろうか
そう思ったときだった
まだ開け放されたままになっていたガラス戸を抜けて
白い霧が今一度波のように入り込んできて
部屋の照明が急に暗くなったような気がした
その白い霧の波の中にまた鳥や牛
羊たちが揺れながら浮かび上がってきた
その中に猫らしい姿を見てハクが言った
「いいかい お嬢ちゃん 俺は猫や犬は苦手なんだ
いい加減にこのお遊びをやめてもらえんかね」
ダフネ2は怪訝な顔つきになって言い返す
「私? 私じゃない 本を読んでいただけよ」
「なんだって あんたじゃない? そんな・・・」
「でも確か
君は『兎のところまで読まなければ』と言ったけど」
「そうよ そう言いました
ハクさんがこの頃余り来てくれないから
兎の話を読むとつまらなくなりそうで
兎の前でやめて今日は早く寝ようと思ったの」
「そりゃあ 可笑しい
俺には兎の朗読が聞こえたぞ」
そこへあのひとが割って入った
まだハクには気づいていないらしい
「なんだ K けっこうこの子と話しているじゃないか
『博物誌』で気が合ったのかね
君らしいといえば君らしいが
それにしてもこの霧・・・」
そう言って珍しくあのひとが息を飲む
さっきまで外の霧の中に浮かんでは過ぎていった生き物たちが
次々に部屋の中に現われ始めたからだった
僕は幻覚だとあるいは白昼夢だと思い込もうとしていたし
逆に僕自身がどこか精神状態がおかしくなっているか
あるいはこの間の怪我や毒物の一件以来
僕の物の見え方がかなり変質してしまったのかもしれない
そういう疑いも持っていた
でも今は
あの人ですらこれを見ているのだと思うと
そういう説明ではどうにもならないことが起きていると
認めずにはいられなかった
長い年月をしっかりと現実の中で生きてきた
あのひとにとってこの出来事はきっとひどく
狼狽えさせるものにちがいない
そこまで考えたときダフネ2とあのひとが
まるで輪唱するように嬉しそうに言った
「ああ でも綺麗」
「しかし美しい」
確かにそれは美しいと言うべきものだった
リビングいっぱいに広がった白い霧の中を
くるくると生き物たちが回り続ける
羽を広げては降り
首を回しては背伸びして
あるいは尻尾をぴくぴく揺らしながら
そしてその透明なシルエットは
ときどき白く耀いてはすっと黒ずんだりする
どこかに光源があるように思えるのだけれど
それが何処なのかわからない
そして
彼らが動く音は一切聞こえなかった
また一段と生き物たちの姿が膨らんで
あのひとが感極まったように
「走馬灯のようだ」と言ったのとハクが
「時の渦か」と言ったのがほぼ同時だった