冬が近い
だから墓地に吹いてくる海風も冷たく感じる
まだ身を切るほどではないけれど
生きているということは血を流すことなのかもしれない
身を切ることは何処にでもある
幸い今日は風は弱く
陽光が墓地に満ちている
海音はやさしく遠い
墓の住人たちはもはや血を流さない
それはひとつの安楽なのかもしれない
生きている間は
痛みを避けることはできないのだろう
ヴァレリーに触れたのは中学くらいの頃だ
アンドレ・ジッドを全部読むあいだに
そこここにヴァレリーの名前があった
「詩について」を握りしめて歩いた記憶
人は神に救われたいと思ってはならない
そんな考え方がいつの間にか自分の中に芽生えていた
しかしそういう強いヒューマニズムに徹するには
まだ青かった
キリスト教的風土が周りにあったし
聖書の話も詩歌も嫌いではなかった
ジッドもヴァレリーもそういう環境の中で育ったのだろう
けれどそれを受け入れることが次第にできなくなった
墓地は死者の場所だ
そういう場所で歌われる生の輝き
古い宗教的な雰囲気とは相容れないもの
人間である自分の力を信じる
信じられなくて他に何を頼ろうか
神々の火ではなく人間が持つことになった火を
高く掲げる
死ぬ者であるという確かな自覚と生の煌き
それは反対概念ではなくて
一つのことなのだと
それも至って静かに一つのことなのだということを
噛み締め理解するには
墓地という場所は素晴らしい場所なのかもしれない
陽光が墓石を温める
その温もりが指し示すのは
死と生があたたかく一つであるということだ
ヴァレリーは思ったのだろう
生を描くには
生を書くには死なねばならない
少なくともこの世の人としては
それがあの長い独白の年月を生んだ理由の一つではなかったか
一人でひたすらに誰に見せることもなく綴られ続けたノート
そういうとき
そうだ
死者の眼から見ればすべての生は虚構に過ぎない
嘘だというのではない
自らを含まない劇だということだ
死という確乎とした現実において
生はリアルでは在り得ない
けれどそれは暗く哀しい話なのではない
この家の住人たちは生きたのだ
そして今その生は物語になっている
物語は既に実体としての身体を欠いて
あたかも風のようなもの
物語は人の生を指し示すが
だからと言ってその生の実りや恩恵を得ることはない
風は枝を揺らすが
揺らすことによって自らを主張するのではない
実りを得る自分
主張すべき自己はもはやそこにないからだ
秋の海は春のように穏やかではない
ところどころに上がる白波は
予測できない緊張を強いる気がする
けれどこの澄明な光
繰り返される海の呼吸
確かに何かを超えてきたという
そういうところにヴァレリーは死を
いや詩を夢見たのではなかったか
長い年月の後に書き進められた「作品」は
彼自身でもあったのかもしれないと思う
Le vent se lève! . . . il faut tenter de vivre!
「風立ちぬ」と言えば
それは確かにある経緯が進んできたという印象を与える
しかし完了する形でヴァレリーは書きたかったわけではない
風が起きる
それは詩が成り立つということではなかったか
死者の家に吹くような風
生と離れてはいるが生と無縁であることはない
生暖かき風のひとふり
tenter de vivre
生きることを試みる
それはもしかしたら
いやかなりの確かさで
生きる意味を見出すのだということでもあったのだろう
この二つのことは「...」で結ばれているように見えるが
いずれにも「!」が付されていて
それぞれが独立した言明であることを物語っている
そしてそれは誰か特定の人物のことでも
また自分に限定されたことでもない
だからそこには一人称は含まれなかった
詩が風のように起きる
生を生きてみるべきなのだ
同じような形で
(あるいは)
同じようなものとして
ヴァレリーはそう歌ったのではなかったか
静かなる死者の場所で
これまでを生き
なおこれからを生きる者として
そしてそれだからこそ
L'air immense ouvre et referme mon livre
大いなる空気が私の本を開きまた閉じる
Clouds by Kristian Taus