「愛しているとか愛してほしいとか
それは全然別のことなのだ
愛しているなら相手が自分を愛しているかどうかなんて
考える余裕はない
あるはずがない
相手の思いの隅々を知りたくなって
どんな些細なことにだって気がつく
自分が愛されているかどうかばかり考え始めると
相手が見えなくなる
つまりそこで終わりがやってくるのだ」
南欧の長期滞在者用の安ホテルの一部屋で
まだ小学生か中学生だった僕に
ジンを煽りながらオヤジが言った言葉だ
僕は人生について何も知らなかったけれど
早熟で人の言葉をひと通りは理解していたから
珍しく人生論めいたことを言ったオヤジの言葉を
克明に覚えていた
そして今
真夜中のコム・ゴギャンの廊下で
未踏を見送ったとき
それから妙にはしゃいだダフネの声を聞いたとき
そのオヤジの言葉が
古い映画みたいにフラッシュ・バックした
僕は未踏がAさんを愛しているから
だからその気持ちが実現されるようにと
苦しんでいる未踏の姿を見ているのが辛かったから
だから
けれど
それは結局は自分が辛かったからだけなのではないのかと
二年の年月の
記念すべきハッピー・エンドの夜に僕は迷った
いや
もう後戻りするつもりもないしできもしない
ただ
あれは僕自身の自分勝手な
むしろ未踏を追い詰めたような
そんな振る舞いではなかったかと
そんなはずもないのに考えた
息苦しくなって廊下のガラス窓を
いっぱいに開け放したくなった
三っつの窓を開ける必要などあるはずもないのに
みんなの所に戻ろうとせずに
僕はわざわざ反対の方向へ移動しながら窓を開けた
僕が窓を開けたので裏庭で
微かに人影が動いた
動いたがすぐに僕だとわかったのだろう
そのまま木の影のように動かなくなった
これはいったい何なのだろう
死には至らなかったけれど
もう少しでダフネや僕が死んでいたかもしれない
その出来事から一週間も経っていない今日
同じ場所に再会と出発の幸せな夜がある
中では人が憩い
外では真夜中まで目を光らせる人たちがいる
こんなことが今の日本で起きているということが信じられなかった
急にその時まだ硬いギブスに支えられていた僕の背中に
激痛が走った
誰かが後ろから僕に触ったのか
窓に手をついて堪えようとしたが
頭がクラクラして
暗い裏庭がもっと暗くなった
光が届かぬ庭の
ずいぶんと上の方から何か白い光が
つかまるべき手すりもない階段から落ちたときのように
くるくると転がり落ちてきて
庭の闇の中に真っ白い泡を撒き散らした
ダフネが空から
いや遥かに高い水面から落ちてきたのだ
ダフネは薄いパジャマのような服を着て
一瞬溺れそうにあがいたが
両の手を
夏の海でそうだったように
飛び魚の鰭(ひれ)が水を切るみたいに動かして
庭の夜の空間を泳ぎ始めた
僕の理性はもう悲鳴を上げて機能しなくなっていた
なぜコム・ゴギャンの裏庭に
深く透明な水が満ち
その中をホールにいるはずのダフネが泳ぐのか
いやダフネは高みから誰かに突き落とされたように
背中から落ちてきて
白い足を捻るようにして姿勢を取り戻し
ああ水ではない
暗い空気の中を突然の混乱から立ち上がる生き物のように
泳ぎ始めて
僕の目の前
開け放した窓の前をすごい勢いで滑るように飛んだ
月の光か
斜めから光が射しこんで
ダフネの白い肩と頬に
それから目の前を通り過ぎる足に
まるで秋の陽が木々にするような静かな波紋を映しこんだ
ダフネが
あの青みがかった灰色の瞳を大きく見開いて
笑いながら言った
マーロン ミ ダフネ マーロン ナジーロン ミア ナジーロン
海に 私 海に 鰭 私の鰭を
そう聞こえるような音だった
でもそれは単語の羅列で動詞を欠き
文法的なところは僅かにしかなく
ただダフネが空中で掻き分ける水音が
そんな音を立てたのかも知れなかった
窓を数メートルは過ぎたところでダフネはくるりと
宙返りして水を掻き
射してくる青い光の方へ昇り始める
ダフネの小さな胸が勢いに負けて形を変えた
それから再び激痛が襲ってきたが僕は意識を保って立っていた
不意に足元で何か白いものが動いて
聞き慣れた声で言った
「備えよ 時間が近づいている
お前にはどうにもできないことなのだと知るだろう」
「なんだって?」と辛うじて声を出した僕は
声の主に気づいて呻いた
白兎のハクが恐ろしく真剣な顔で暗がりの中から話しかけていたからだ
「なんだって?」
そう僕がもう一度聞こうとした瞬間
またしても
僕はホールの皆の輪の中に立っていた
未踏が笑いながら立ち上がって
この上ない優しさで僕の手をとって言った
「ねぇ K ダフネを私に貸してくれない?
この子もきっとそうしたいと思っている
感じるの」