跳ね上がって行く、力強く地面を蹴った機体が。乱数模様の五月の風に乗るのは容易なことではない。泳者のように機首を上げ下げしながら空気の壁をよじ登るのだ。プロペラの音が風と戦っている。今日の風はなまなかな相手ではない。へなちょこのドアがぶるぶると震える。破れかけの部分を補修したガム・テープが少しはがれてエア・リードのように振動して音を立てている。いや、機体そのものが自ら作り出すカルマン渦の切っ先でじたばたと上下に振れ続ける。
五月、僕は五月に生まれたからというわけではないが五月が好きだ。芽吹く緑が眼下いっぱいに広がっている。目に痛いほどの緑。このまま水平飛行の遥か手前でドアを開け、外に飛び出してしまいたいという欲求にかられる。濃い緑を見続けてやがてその急速に視野いっぱいになる緑に衝突する、あっさりと乾いた炸裂音を立てて。吹き込んでくる風は冬の日の飛行とは比べ物にならないくらい快い。暖かいとはまだとても言えないが、身を投げたいと思う快い冷たさだ。
五月は気だるい。日本の一年が四月に始まって三月に終わる春夏秋冬の四季感のせいか、始まるときには気負って気づかぬ内に緊張していた気分が、少し疲れて少し緩む。世間の成り立ちの中で生きている以上、その流れにいつの間にか従い、そして時々ついていけなくなる。それが人だ。しかし、五月の気怠さはそれだけとは思えない。うらうらと温まりゆく気温、適度な湿り気を帯びた風、花たちの湧き上がるような興亡、弾けきらない身体に蓄積されかけている熱。萌え上がる<時>に押されて尚飛び立てない自分への憤り。身体の代謝の、冬から夏への遅ればせな、中途半端な転換。そんなものすべてが気だるくさせるのだ。しかし、その明るい闇に踏み迷うのを僕は嫌がってはいない。むしろ愛しさえする。だから五月が好きなのだ。新鮮さと気怠さの綯交ぜになった季節である五月が。それはどこかで自暴自棄と似た感情なのかもしれないが。
暖かい空気の塊に腹を圧されて機が舞い上がった。一気に開ける眺望。この一瞬のために飛行機乗りになる者も多いだろうと思う。視界が風なのだ。形を色を光と翳りを見る視力がどこまでも遠くまで流れていく気がする。機がではなく身体がでもない。感覚が、この外界を捉える感覚が僕の身体を離脱して死のように美しい碧の海へ、それから空中のありとあらゆる粒子にぶつかって挨拶しながら走り去る光を僕の感覚は食らうのだ。濃い色彩と熱に満ちた球体の上を飛ぶ。もう機体は意味を失っている。脆い小さな、羽を生やしただけの小箱はいつ何時にもばらばらになるだろう。だからこそ僕たちはその死の境目で風に抗っては風に乗り、あざとく蘇るのだ。
エンジンの音が一定になると音は次第に聞こえなくなる。聞こえるのは定常でない気ままな風のお喋りだけだ。いや、もしかするとこの風は今そこに横たわって腹を波打たせている海の息吹なのかもしれない。世界は揺れている。この哀れな星の上ではいつになっても戦争がなくならない。自負心を憤らせて戦った後で、我々が得るのは傷跡だけだ。何の意味があるのだろう、胸を裂き血を流し腕を吹き飛ばし頭を割って、なおかつ優しき者たちを失い、ずたずたにされた自分自身の自尊心に気づいたときにはすべてが済んでしまっている。そして、そういう思いをしたことのない人たちが、気弱さから好戦的になり、道を踏み外す。その果てしない繰り返し。
地上が何度も頭上に現れる。回転する褐色の大地。気が狂ったように反転を繰り返す機体に縛り付けられたまま飛び続けるのだ。こういうとき視界が奇妙に変質し魚眼レンズで見たように曲面化すると思う人がいるけれど、それは風防ガラスと機載カメラの合作した嘘に過ぎない。いや、少なくとも僕にとって、こういうときの大地は無限遠に広がる、どこまでも平坦な、叩きつけられれば粉微塵になるような大きく硬い石の平板だ。敢えてそんな飛び方をする連中は曲芸好きか自暴自棄なのだ。それでも誰も堕ちることなど考えたこともない。乗り越えることができると確信しているから愚かな一時の危険に身を任せられる、浮気な恋のようなものなのだ。愛とは違う。いや僕は愛について語る資格は持ち合わせない。持ちあわあせないが、愛する力の尽き果てたときになってそれとわかる、そんな完了形のものだろうと思う。浮気な恋はいつまでも未来志向、たどり着くことのない空虚な未来志向の何と甘いことか。
僕は何をしているのだろう。いや、何をしてきたのだろうと束の間考える。飛んで何の意味があるかなど考えたことはない。生きることについても同様だ。だから、そう考えたのはほんの一瞬のあいだだけなのだが、空の上では一瞬は永遠だ。おもちゃ箱にしまい忘れた箱庭みたいに街が見える。あんな小さな車に僕たちは乗っていたのかと。まるで紙で出来たマッチ箱のようにあっという間に視野から吹き飛ばされて遠ざかる。たまに機影か音に気がづいて見上げる人の顔がなぜかよく分かる。ほとんど点でしかないものの表情が感じられるのはなぜなのか。子どもたちが嬉しそうに手を振ったりしたら、その手の指のどれとどれがくっついていたかさえわかるときがある。昼間の飛行にしか与えられない、遠景の人たちの精細な機微。遠く離れているからこそわかるという哲理、飛行機はそうやって遥か遠い空気の上を滑っていく。
どこまでも滑って、どこまでも到達できそうな感覚に決して騙されてはならないと教えられた。ぬけるような碧空。その夢は多くのパイロットが少なからず酔う夢だ。しかし酔うだけでは済まない、むしろ明らかに幻覚なのだ。それも確実に死に至る。賢明な経験者たちはこの恐ろしい誘惑から身を守るすべを幾つもいくつも開発してきたはずだ。誰だったか版画家だったと思うのだが、プロはスランプに陥らない方法を幾つも持った者を言うのだと。なんと正しい指摘だろう。そしてそれは五月の気怠さについてだけの心構えにとどまらない。どんな飛行にも当てはまる。どんなときも油断なく、何処までも無限遠に飛ぶという死の誘惑に打ち克つ術を幾つも知った者だけが生き残るのだ。
生き残って、ふわりと宙に浮き直すように、雑草に取り囲まれた滑走路の大地に戻るのだ。その不確かな、狭く乾いた大地の、やるせないほどの柔らかさ。それは空の甘さとは全く異なった優しさを持っている。しかし、ときにはその優しさに空の甘さがまさってしまうときがある。そういう日には、サンテックスの機のように明るい日射しを全身に浴びながら翼は空をするすると滑り始めていくのだろう、揚力を支え続けてくれた空気を次第次第に失いながら。そんな日が自分には来ないと誰しもが思うのかもしれない。けれどそれが来た日には、抗う力を持った飛行機乗りは一人もいないと僕は密かに確信している。