真夜中のコム・ゴギャン(7) | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 アメリカは日本と違うから権威というものを
 日本人のようには履き違えない
 仕事の上の能力と人としての生き方は
 一致することもあれば一致しないこともある
 それをわかって人と向き合うし
 わかっていなければいけない文化がある
 そんな中ではAさんはプロフェッサーになることを嫌がらなかったが
 日本ではそれを望まずに田舎町のレストランバーでピアノを彈いていた

 おそらく最初はそれほど長く居るつもりはなかったのだろう
 たまたま権威を勘違いした女と別れた店に
 半分やけっぱちみたいに居ついたのだから
 けれどそこに未踏がやってきた
 それからAさんのレスポワール時代は長くなっていったのだと
 僕は勝手に推測している

 中学生時代の未踏がそうだったか僕は知らないが
 Aさんは未踏が可愛いと思って歌うかと声をかけたのではない
 ほんとうに魅力的な子だと僕は思っているけれど
 見かけ風采が際立っているわけでもない
 しかもいつもオドオドしているようなところがあった
 にもかかわらずAさんは未踏の中の何かを見抜いた
 歌い続けてきた喉か息遣いか
 中学生の女の子の中に
 権威の欠片も持たない田舎の少女の中に

 そしてそれからの年月の間に
 未踏は一度も期待を裏切ることなく伸びた

 もしAさんが未踏を女として認めていなかったのなら
 渡米する必要などなかったはずだ
 一方で良きパートナーとして
 他方では父親として若い恋人たちを見守っていればよい
 最初はきっとそうだったのだろう
 でも未踏の感情が次第に変質していったことに
 Aさんは当然ののように気づいた
 そしてもし告白されれば笑ってそんな気はないよと言うだけだ
 けれどAさんは告白される前に逃げ出した
 告白されたときにどうするか決めかねたからだ
 微かな
 しかし確実な惑い
 それこそが僕がAさんに見たものだった
 僕はAさんの惑いが秘めた深刻なものに気づいてしまったのだ

 僕もまたお節介だったのかもしれない
 未踏との日々が次第に変化していくのに気づいて
 それならば未踏が幸せになるほうが良いと
 でも
 それは僕の青臭い自尊心だった可能性もある

 いや違う
 すべてのことは未踏の激しい感情に動かされ
 皆がこの道を最善のものだと考えざるを得なかったのだ
 そしてそれはただの思い込みでもなければ
 片思いでもなかった
 Aさんと再会した日にAさんは僕に言った
 「君が正しかった」と
 それはAさんの確かな告白
 Aさんがニューヨークを離れてから僕たちが再会するまで
 何日あったのかは知らない
 その間にAさんは自分で気づき認めたはずだ

 そのことを
 とても大切なそのことを

 でも未踏はそれを知らなかった
 病院に来る前には了解は成り立たなかった
 お互いの不安定な感情が邪魔をして
 けれど
 きっと未踏が今日病院から出た後で会ったとき
 二人は了解し合えたのだと僕は考える
 そうでなくては
 この即興の掛け合いはない

 単純なことが
 お互いを思う気持ちの故に単純ではなくなる
 わかってみれば氷は解けていく
 瞬く間に
 春の雪のように

 未踏はハミングを続け
 その甘く低い声に高い確かなピアノの音が応える
 そのインプロヴィゼーションは
 ほとんど絡み合う指だった
 指と指の間が涙のように濡れていた

 聴衆は気づかずにその甘い掛け合いを
 美しいと感じたのかもしれない
 でも秘められた甘さには気づいただろうか

 いや甘いということがどういうことなのか
 そのときには誰もわかってはいないものなのだ
 ただ時が経つ中でその甘さは次第に明瞭になる
 その甘さが日々に沁みこんで
 毎日の一息一息までも甘く変え
 甘いということの正体を人にはっきりと教えるからだ

 僕はそのことに
 この甘いハミングと鍵盤のダンスに
 ある意味で完全に打ちのめされた
 息が苦しくなって言葉が出てこないほどに
 けれど同時に
 僕には自分でも不可解な歓びがあった
 何だか死のように甘い
 こんな歓びを人は一生の間に何度経験するのだろうか

 未踏はやがてスキャットを交え始める
 そうやって
 次の曲を選んだのは未踏だった

 空間を離れたままのデュエットの三曲目が終わったとき
 堪えきれずにエスポワールの常連が声を上げる
 「未踏 お帰り お帰り 未踏」
 そう言って立ち上がってピアノの傍で待ち
 近づいてくる未踏を待った人たちも居た
 「何年ぶりだ? もう長いこと居なかったじゃないか」
 そういう声も聞こえてくる
 何年?
 たったの二年さ
 けれど
 僕は胸が熱くなる
 皆が未踏を愛しているのが痛いほどわかる
 そして未踏がAさんを愛して追いかけていったことを
 皆が当然の成り行きだと信じている

 『お帰り』?
 いやそうじゃない
 お帰りではないはずだ
 『おめでとう』と言うべきじゃないのかと
 これは当然の成り行きだったのではない
 今夜まさに
 今こうやって確かなものになりつつある出来事なのだ
 悪戯好きな時間の魔物にからかわれ
 もう少しで落ちて割れてしまったかもしれない
 美しいグラスを
 僕たちは今手にとったのだ

 僕が席から立ち上がるとダフネがくっついて立ち上がった
 僕たちはまっすぐに
 もうほとんど走って二人のところまで行く
 それから自由のきかない胸と背の骨を膨らませて
 出来る限りの声で言う
 「おめでとう 未踏 おめでとう Aさん」
 その声は残念なほど可擦れていたけれど
 ダフネが僕を助けてくれた
 「お・め・で・と み・と・う ぴあーの A」

 未踏はそれを聞くと
 そのままダフネを抱きしめたが
 頷くだけでもう何も言わなかった
 それからダフネからすっと離れて
 未踏はゆっくりと僕を抱きしめて言った

 「ありがとう K
  あなたがいなければ

  あなたは死ぬまで私の恋人でいて頂戴
  Aを愛する私を愛していて
  今までそうだったみたいに
  これからもずっと
  私も同じようにする」

 未踏の両腕に重なるように
 Aさんの腕がやってきた
 それはハグというよりは
 鍵盤を打つ激しい今夜のAさんの指みたいに
 僕を小突き回しているようだった

 レスポワールの人たちを除けば
 何が起こっているのかを理解した人は多くはなかったろう
 でも何だかわからないけれど
 幸せそうな出来事が起きていることを
 客たちは皆喜んだ
 これだけの音を息を聴いた後では
 何もかもが美しくなってしまうものなのだ

 「K ダフネを私に貸して」
 唐突に未踏が言った
 そうしてダフネの肩を抱き寄せた
 未踏はダフネの腕のギブスには気づいていたが
 肩にも縫った傷があるとは知らなかったので
 傷のある方の肩に手をかけた
 ダフネは一瞬顔を歪めたが
 未踏にされるがままになっていた

 それから未踏は客たちに向かって話し始める

 「すみません
  きっと説明が要りますよね
  ああ
  それよりも温かい拍手を有難う
  飛び入りというわけじゃないのです
  でも飛び入りみたいな
  素敵な皆さんの夜の灯にとっては
  飛び入りの

  誰も紹介してくれないので

  未踏と言います

  ピアニストがエスポワールで弾いていた頃
  育ててもらった歌うたいです
  小さい時からずっと一緒でした
  話せば長くなるので話しません
  話せば私の一生ほどに長い話です

  でも私は
  未踏は
  このピアニストのAさんの
  さっき奥さんになりました」

 水を打ったようなという言い方があるけれど
 これは水どころではなかったろう
 その場にいたすべての人から言葉と音を奪った
 とても痛烈な
 そして素敵なお喋りだった
 僕の目が勝手に涙を溢れさせてきて
 僕はどうしていいかわからなくなる

 何秒かの完璧な沈黙の後に
 さっきまでのAさんのピアノを凌駕するような拍手が沸き起こった

 「ありがとう
  ありがとうございます
  今夜の皆さんのその温かい拍手を
  未踏は死ぬまで耳に刻みます

  ありがとうはもうひとつあります
  聞いていただけますか」

 誰かが先頭を切って答えた
 「聞きたいわ 未踏さん」
 それは少し酒に酔った初老の老婦人だった
 「ありがとう
  ありがとうございます

  今夜私が歌っている
  それにはたくさんの人の力添えがありました
  お礼のしようもないほどの力です
  なかでもとても大切な人がいるのです

  それを一人で
  私ひとりで言おうとすると
  胸が震えて話せなくなりそうなので

  この子
  ダフネっていうんです
  愛らしい
  綺麗な子ですよね
  でも日本語は余り話せません
  言葉が
不自由な子だから
  だから私にはとてもとても強い味方です 
  この子が傍に
  こうしていてくれるだけで
  私は言えるのです
  まっすぐに

  Aが
  Aと私でこの夕方に
  作ったばかりの歌なのです
  でもこれは歌ではない
  私の
  私とAさんの
  ふたりからの抱擁

  皆さん
  これは個人的なことなのですが
  一緒に聞いてくださいますか」

 僕は頭がクラクラして
 途中から未踏が何を言っているのか
 正確には理解できなくなりそうだった
 いや
 わかりすぎてわからなくなる
 そういう場合もあると思い知る
 ダフネが未踏の腕の中から微笑まなかったら
 僕は逃げ出していたかもしれなかった

 静かな秋の夜
 陽気な客たちがテーブルを叩き
 グラスを鳴らして意思表示した
 未踏のその歌を聴きたいと

 「ありがとう
  私たちはこの歌を
  このハグを
  ここで何も言えなくなっている
  おバカさんのKに捧げます」

 そう言った瞬間に
 素早くピアノに戻った幸せ者のピアニストの指が踊りだし
 未踏がダフネの肩を抱きながら歌い出す

 にわかに風がコム・ゴギャンの窓を鳴らして行った