どこか歩くことを戸惑っているような歩き方だった
硬質な床の上を硬い靴音が足早に近づいてくるのに
今も変わらない
あの頃と
歌うこと以外は何もできないと言った
潮風の岸壁で歌い続けた喉は強靭だった
だが心は砂のように脆(もろ)かった
予想外に早い到来
だが
ここに来るために君は戻ったのではないだろう
しかもその青いドレス
いったい何処からやってきたのだ
何かの舞台から逃げ出してきたように
しかもどうやって
ピアニストですらここを知らされていなかったはずだった
何の力もない
ほんとうに歌うことしかしらない君が
どうやら厳重らしい警戒をかいくぐり
歌うたいは僕の顔を見るなり僕の名を呼んで
それなり息をつまらせた
返事をすると
袖のないドレスから出た肩を震わせて泣きだした
はらはらと
まるで乾ききった花びらに
慌てて与えられた救いの水のように
頬を転げて
組んだ両腕の懐かしい肌の上へ
ぽろぽろと溢れ落ち
壊れてしまったのではないかと聞いたと言った
何もかも
それなら私が呼び戻す
そう思って舞台衣装で来たのだと
なぜピアニストと一緒ではないのかと
僕は口惜しそうに聞いただろうか
歌い手の後ろから別の
落ち着いた声が彼はもうしばらくしたら来るだろうと答えた
この人は私が制止できる人ではないようでねと
それから歌い手は
僕のベッドに力尽きたように腰を下し俯いたまま
あなたが聞こえなくなったら
私は誰のために歌うの
と
それはとんでもない勘違い
たくさんの素晴らしい人たちが歌い手をその声を愛していた
まだ子どもだった頃から
君が夜も歌えるようになってからは
朝が近づくまで
僕だけが耳だったわけではない
そう言った
歌い手は何度も首を横に振り
昔のように仕草で僕の言うことに抗った
そういう意味ではないことはわかっているだろうと
また別の声が言うと
歌い手はまた何度も頷いて
一つ一つ言葉を絞り出すように言った
今も私が歌っているのは
あなたがいたからだと
ピアニストがいたからじゃないかと僕は言わなかった
確かにそれとこれは違うのだ
とうにもう愛情の問題なんかではなくなっていた
そう言われなければ
まだ僕はそんな些細なことに拘っていたのだろう
僕はしばらく黙って息を整えてから言う
歌うために来てくれたんだねと
戸惑うことも恐れることも何もない
それこそ水のように静かな
未踏との再会だった
年月が流れたことも忘れるほどに昔のままの
けれど年月が葛藤を洗い流した分だけ
不思議な近さで
さっきから後ろで静かな顔つきになっていたあのひとが
こんな場合にも
いやこんな場合だからこそかと言い
お許しが出ればだが
今夜はコム・ゴギャンで再会の宴をやり直そうと
それに誰も反対はしなかった
このよく晴れた日の空のように青い服
今は着こなしも
その視線の動かし方も比較にならないくらい大人びていたけれど
変わらないままのもの
歩き方も
歌っていないときはいつも微かに狼狽えているような口元も
そして
何よりもあの潮騒のような深い息
おかえりと僕が言ったとき
それまで未踏を見てはいなかったダフネが振り向いた
未踏はダフネの顔を
人の奥まで見通してしまいそうなほど見続ける
あの昔ながらの目だ
この子がダフネ
ああ私が思い描いていたダフネそっくりだわと
名を呼ばれたダフネは何を思ったのか
僕の脇から滑り降り
未踏の前にまっすぐに立つと
未踏を青いドレスごと
ゆっくりと
羽毛が落ちてきて花にとまるように抱きしめた
それから誰の耳にもはっきりと聞き取れる声で言った
お帰りなさい みとう ダフネ K