その朝のダフネ | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 いつもと夜の長さに変わりがあるはずもないのに
 とても長いあいだ意識を失っていたような気がした
 
 たぶん目が覚めるほんの少し前に
 僕はたくさんの夢を見た
 それぞれの夢にそれぞれの人たちが現れては消えた
 林の中に置き忘れられた日時計や
 ホテルの誰もいなくなった部屋も見た

 それから遠くで声がした
 少しかすれたような
 どこかで息が続かなくなって呑み込まれてしまうような
 何度も僕を起こそうとしてもどかしげな声

 それがダフネの声だと気づいたのと
 声が「K」と僕の名を呼んだのが一緒だった
 ダフネはいつだって夢の中でしか話せない
 たまに目覚めている時にも呼ぶけれど
 それが何のために呼んでいるのかわからないことが多かった
 言葉が育たなかったダフネの言葉は
 いつだって夢の中でだけ雄弁だった
 でもこの朝は夢の中のダフネの声も息が続かない
 遠くから
 ずっと遠くから

 それから温かさと透明な冷たさが奇妙に入り交じる

 手だ
 手が僕の顔を何度も
 もう昼が近づいているのだと言いでもするように
 頬から顎にかけて
 手が僕を揺り動かそうとする
 細い指
 石膏像の指のようにすべすべとしているから冷たく感じるのだろうか
 温かさはどこから

 夢だと思ったのは
 僕にダフネの声が聞こえたからだ
 薬を点滴される前には僕には何も聞こえなかった
 だから僕は目でダフネの声を聴いていた
 取り返しのつかない変化が起きたのだと感じていた
 そうではないと脳外科医が言ったけれど
 僕は少しだけしか信じていなかったらしい
 馬鹿げた出来事の連続で僕は
 事実が事実であるかどうか
 どうでもよくなっていたのかもしれない
 声はずっと失われ
 そしてこれからは目で聴くのだと
 奇妙に信じていた

 だから僕が胸の辺りに
 急に熱いものを感じたとき
 温度を感じる夢を僕は見たことがあっただろうかと訝った
 ひゅーと息の音
 息の
 音?

 いつの間にかはだけたパジャマの中に
 ダフネの髪の毛と
 仔山羊のように通った鼻筋が見え
 何をしているのか
 まるで僕の胸に息を吹き込もうとするように
 ダフネが唇をまるめて
 ふうふうと息を吹きかけていた

 夢なのか目覚めたのか
 僕にはわからなかった
 なにしろこの数日
 僕の身体も感覚もものすごく変化し続けていたからだ
 意識を失い聞こえなくなり
 音が見えるようになり
 かと思うと深い闇のなかで感触だけが

 でもやがて息の音がほんとうに聞こえるのだと
 実感した
 僕の腹の上辺りにあるダフネの小さな胸が
 膨らんだり凹んだりするのに合わせて
 ふうううと音がした
 目を開けると
 いやいつから僕は目を開けていたろうか
 瞼の感覚は不確かだった
 明るさはいつの間にか近づいてきたが
 それもまるで水で薄めたミルクの中に射すように不確かで

 顎のすぐ下にあったダフネの顔は見えていたが
 身体はまだミルクの闇の向こうに居るようで

 そして突然くっきりと
 だぶだぶのパジャマからむき出しになったダフネの肩が見え
 それから背中から尻へ
 少しねじ曲げられたような両足
 白い踵が見えた

 僕が呼ぶとダフネは顔を上げた
 青みがかった灰色の
 薄曇りの日の水辺の青の
 二つの瞳
 瞳から
 まるで夏の暑い午後踊り疲れて流した汗のように
 涙がぼろぼろと零れた

 それからダフネは僕の名前を呼ぼうとしたのだけれど
 声はまるで喘息の子どものように
 ひゅーっと鳴って言葉にならなかった

 濃い褐色のダフネの髪を
 海の砂に触って確かめるように撫でた
 指の間をダフネの髪が
 かすかな音を立てて流れ落ちていく

 僕はもう一度「ダフネ」と呼んで
 自分の声が聞こえるのを確かめた
 僕の声だった
 骨を伝わってくる声ではなくて
 部屋の空気の中を跳ね返り
 ダフネの顔に当たって戻ってくる声

 二度目に名前を呼ばれたとき
 ダフネの息はもう静かになっていたけれど
 ギブスからやっと出る指と自由な方の腕の指が
 僕の両腕をしっかりと掴んでいた

 「しんぱいしたか」と僕は聞いたが
 ダフネはそれには答えなかった
  「しんぱい」
 そんな言葉をダフネは知らない
 代わりに少し頭をあげて
 ちらりと朝の光に揺れている窓の方を見た
 それはダフネの
 この朝の
 僕を見るやり方なのだと思う
 
 死んだように眠り続けて
 自分を放おっておいた僕を怒っているのかもしれない
 努めて少しでも距離を置こうとしているような
 けれどそんなことがどうやったらできるのか
 ダフネは知らなかった

 それからダフネは
 僕の上に来て
 猫より遥かに大きく伸びやかな身体を
 猫のように丸めて
 規則正しい息をし始めた

 僕が眠っている間
 ダフネが余り眠らなかったことを僕は悟って
 もう一度
 ダフネの肩を抱き寄せる

 ふたりとも生きているなと思った


 ドアが開く音がしたのはそれから十分もたっていない
 束の間のダフネの寝息の向こう側からだった
 何人もの人の気配と足音
 中に聞き覚えのある足音もあった