虹の翳り | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 床に倒れこんだとき
 僕の背には
 ぐさりと刃物で刺したような痛みがあった
 刃があったわけではない
 肩から背にかけて
 ギブスか添え木のようなものだったのか
 僕はそれをベッドに寝かされている間には確かめることがなかった
 今もそれは僕を傷つけてはいないだろう

 処置室でダフネが口にした言葉を聴いたときから
 疑い深い僕には迷いがあった
 ダフネは今までも言葉を口にすることはあったが
 それはほとんどが名詞
 ただ一つポツリと言うか
 そうでなくても物の名をただ羅列しただけのものだった
 なのにあのときダフネは「私を」と言った
 「私」という言葉ですら今まで聞いたことがない気がする
 ダフネはいつも自分を表わすときには「ダフネ」と
 ただ自分の名前を

 なのにあのとき「私」と言い
 いや
 それどころか「を」という助詞まで付けたのだった
 それを聞いた後で
 意識が薄れまた戻る中で僕は考えた
 これはもしかしたら
 ダフネ2
 ダフネではなく言葉を巧みに話すダフネの影ではないのかと
 そして本当のダフネはもう
 ここにいないのではないかと

 僕は覚えていた
 ダフネ2
 それは僕の幻影だったのかもしれないのだけれど
 ダフネ2が言ったことを
 僕がダフネを恋するようなときには
 『私』が身代わりになると
 なって
 ダフネを僕から守るのだと

 朦朧とした中で聞いた一言にこだわって
 僕はどこかでダフネを疑っていた
 けれどダフネ2なら
 こんな愚かな
 いや愚かという言葉は間違っていた
 こんなにも純粋に
 身をもってあの夜の出来事を繰り返すことはしない
 この愚かさはダフネのものだ

 だから僕は傷んだのだ
 自分の猜疑心の深さに

 音が聞こえないというのは不思議なことだった
 床に落ちたときも
 飛びついてきたダフネのパジャマの擦れる音すら聞こえず
 自分が倒れた実感がなく
 ダフネが今僕の名前を呼び続けていることですら
 痛いほど見えているのに
 甘く耳には響かない
 きっと僕は歩くときですら足音を聞かず
 足音の壁に反響する音も聞かない
 ドアを後ろ手に閉めたとしても
 そのドアの音がしないなら
 どうやって僕はドアが閉まったと知ることができるのだろう

 短い時間の中で
 僕は音に飢えていた
 ダフネが僕を呼ぶ声を僕は聞きたかった

 けれどダフネの唇は虚しく揺れ続け
 声は聞こえなかった
 ダフネが両手で
 その片方は固められて自由が聞かなかったのだが
 それでも両手で僕の顔を包もうとしているときも
 ダフネの手が触れている僕の髪の毛は沈黙したままだった

 『ダフネ』と僕は言ったが
 その声も僕には聞こえなかったので
 僕はすぐにもう一度名前を呼ぼうとし
 もう少しで舌を噛みそうになる
 その声がダフネにも届いていないかのように
 ダフネは僕の名を呼ぶのをやめなかった

 喘ぐように
 音もなく揺れ続けるダフネの唇に耐えられず
 僕はダフネの頭を抱き寄せて
 ダフネの唇を僕の唇で塞いだ
 乾いていたダフネの唇が
 やがて濡れ
 静かになるまで
 ずっとそうしていた

 唇が止まり
 僕の上でダフネは静かになった
 さっきは感じることのなかった
 ダフネの体温が僕の胸や腹に
 足にまで伝わってくる

 恐ろしいほどの静けさのなかで

 音の聞こえない中で
 唯一確かめられるダフネの熱を
 僕は抱きしめたままにしていた

 生きてあることは
 どういうことなのだろうと僕は思う

 やがてダフネの唇がゆっくりと離れ
 僕の上でダフネの胸がふうっと膨らんだ
 深く息を吸い込んだのは
 ダフネだけではない
 僕も同じように止めていた息を吸い込んだ
 そのときダフネの甘い匂いが
 口からも鼻からも
 僕の中に入り込む

 ダフネは両腕をすっと伸ばすと
 上半身を浮かせ
 何か言い始めた
 僕の名前を読んだときのように苦しげにではなく
 穏やかな
 ゆっくりとした唇の動き
 
 歌っている
 そうにちがいない
 この唇は歌っているはずだと僕は思う
 懐かしい歌
 いつか酔ってうとうととした僕の髪を撫でながら歌った
 あの聞きなれぬ音階の
 「子守唄のようだ」とあのひとが思った
 あの歌にちがいない

 その証拠は
 ダフネの唇からこぼれでる息のように淡い
 微かな色だ
 聞こえなくなって僕の奇妙な感覚が研ぎ澄まされてでもいるように
 色は唇の動きに連れて
 さまざまな色合いに変わっていった
 それはまるで
 虹の消えたあとに
 虹を懐かしんでダフネが紡ぐ虹の翳り
 色は五線譜のない楽譜のように流れた

 そして理由もなく僕は確信する

 これは子守唄なのではない
 ダフネのふるさとの
 遠いふるさとの歌にちがいない
 ダフネの命が産み落とされた
 あの空の碧い国の
 懐かしんでも懐かしみきれないふるさとの

 歌いながらダフネはさらに身体を起こして
 自由になる方の手で僕の手をとって
 自分の胸に持っていき
 ダブダブのパジャマの中へ導いて
 柔らかな乳房のすぐ横に押し当てた

 僕が今聞こえていないことはよくわかっている
 これならどう
 そう言いたげに少し首をかしげながら

 そうして僕はダフネが望んでいることを理解し
 望みに従って
 ダフネの鼓動をこの愚かな五本の指で聴く

 生きてあることは
 どういうことなのだろうとまた僕は思った