コム・ゴギャンの夜 (13) | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 二階の屋根の高みから飛び降りたなら
 かさかさに乾いた藁人形ですら死ぬかもしれない
 まして
 あの音は

 ほんの一瞬に過ぎないはずの時間が異様に長く感じられた
 黒々とした夜空を
 青と白の大きな鳥が羽を折られて落ちくるような
 白くて長いダフネの腕と足が
 棒のように伸び

 僕にできることは何だろう
 人の命を左右することはできないと思い続けてきた
 それが命を救うことであったとしても
 人は命を与えられ
 そして必ず奪われる
 どのように強い愛があったとしても

 ダフネが死ぬことになるのなら
 僕にできることはダフネを抱き上げて
 悩みの消えた額と
 愛らしい温もりの未だ残っている唇に
 口づける
 涙は流さない
 それが僕の送り方

 いや
 僕はダフネを抱き上げることもできずに
 この踊り手とともに
 硬いコンクリートに叩きつけられて
 紅い紅い血を流し
 錯綜した事どもの糸をほぐすこともなく
 その糸に絡まれてダフネと一緒になる
 だから抗う力をすべて投げ捨ててしまう

 それもいいのかもしれない
 ケ・セラ・セラ
 僕の頭は物凄い勢いで麻痺し始めていた

 僕は両手を伸ばしていた
 あの高さから落ちてくれば
 僕の腕はダフネを抱きとめられない
 だから
 両手はただダフネを
 出迎えたいと伸ばしただけだった
 その後は

 ケ・セラ・セラ
 僕の頭はもっと物凄い勢いで麻痺していった
 
 ダフネはもう僕の真上に来た

 『死ぬのだな』
 そう誰かが頭の中でぽつりと言い
 ダフネの白い顔が空の底にいる僕に近づき

 それからダフネの閉じていた瞼が
 するりと開いた
 それは恐怖に戦く瞳ではなく
 長い旅から解放された旅人の目のように
 静かで穏やかな
 僕が今までに見たダフネの瞳の中で一番穏やかな瞳
 青みがかった灰色が僕に笑いかけ
 僕に抱きとめられたがっているように
 思える

 それからゆっくりと
 ダフネの両腕が僕に向かって動き
 強い衝撃が来た
 僕は棒立ちのままダフネの腕で
 押し倒される
 肩甲骨がみしりと音を立てた
 さあ後は
 ダフネの血潮と僕のとが
 やさしく入り混じって人工的な地面を覆うのだ

 何と遠回りな旅だったのだろう
 もう随分と前から
 こうすればよかった
 落ちて来るダフネを僕は身体で受け止めればいい
 やわな腕など使わずに

 ダフネの顔が僕の顔に頬ずりしそうなほどに近づいて
 ダフネの胸が僕の胸に
 ぐにゃりと重なってくる
 半年余りの間に随分成長したのだなと思う
 柔らかな乳房の感触を
 育っていくダフネの感触を
 僕は楽しんでさえいただろう
 その後に来る事どもを何一つ考えず

 ほとんど同時に
 ダフネの両膝が僕の足の付け根あたりに
 奇麗にそろって打ち当たる

 とうとう時が来た

 そう思い僕がダフネを最後には抱きしめていようと
 腕に力をこめたとき
 ダフネの上体が僕の両腕の輪を
 すり抜けた
 『ああ 止められない』
 ダフネは僕に打ち当たり
 なおも勢いに押しやられて
 くるりと反転し
 地面の上に投げ出されて
 ゴム人形みたいに
 何度も跳ね
 やがてコンクリートの途切れた土の上で
 動かなくなった

 花のない秋の桜が広げた枝の下で