コム・ゴギャンの夜(10) | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 あのひとが手を伸ばし
 それに応えるように緑の石が煌めいたとき
 僕の意識は数十秒あるいは何分か前に引き戻された
 あのときダフネのナイフに
 誰かダフネ以外の人の目が映った
 ダフネの目の斜め上あたりだった
 それを確かめようとしたちょうどそのときに
 店の灯りが落ちたのだ
 まるで意図してタイミングを計ったみたいだった
 でもそんなことはない
 亭主が遠くで
 誰かがメインスイッチに触ったと言っていた
 それはきっと厨房か何処かにあるので
 この小部屋からはずっと遠くだ
 この部屋か窓の外かにいた人物がスイッチを切れるわけがなかった

 でもそんな奇妙な疑いを感じるほどのタイミングで
 灯りは消えたのだ
 そして声とキャンドル
 あれは誰だったのか

 それからまた僕は
 ここしばらく崖の上の家の周辺で起きたことを
 次々に思い出した
 奇妙な空き巣も
 いや他にも
 何かがおかしい
 いや誰かが僕たちの近くにいるという感覚があったのだ

 「これは私が預かっておこう」と
 あのひとの声がしたときには僕は小部屋を出かかっていた
 まだ石にこだわっているのか

 もしあのときの女の声がダフネが消えたことに関係あるなら
 ダフネは部屋の外
 あるいは店の外かもしれなかった
 意識の何処かでさっきの声の主と
 崖の上の道ですれ違った女性が重なっていた

 部屋を出てすぐに亭主に出くわした
 「すみません
  こんなことは初めてで
  真っ暗になってダフネさんが怖がったのではないかと
  急に心配になって」
 「キャンドルが来て」と僕は答えたが
 その先は続けられなかった
 そう言えばダフネは特に暗闇が怖いわけではない
 一種の動物的な勘みたいなものがあって
 暗闇だろうと海の中だろうと
 そういう変化では左右されない
 と言うことは

 「キャンドル?
  どなたがキャンドルなんか」
 そう亭主が言っているらしいのを聞きながら
 僕は亭主を置き去りにして
 テーブル席の空間の方に飛んでいった
 見回してもダフネらしい姿はなかった
 もう店の外かもしれないという思いで
 僕はもう半分走り出していた

 ダフネは今までもときどき「失踪」することはあった
 人がどう思うかなど考えることがないのか
 気ままに何処にでも歩いていってしまうからだ
 でも今みたいに
 忽然と目の前から消えたことはない

 不安でドキドキする
 こういう胸騒ぎは久しぶりだ
 どうすれば

 店の外まで来たとき
 目の前の駐車スペースから車が一台出て行くところだった
 いや女が運転席に乗る所が見えた
 違う
 運転席じゃない
 左ハンドル
 後部座席に人影は見えなかった
 でも横たわっていたらわからない
 車内は暗く
 コム・ゴギャンの名前の入った案内灯の明るさのせいか
 余計に暗く見え
 珍しいことだったが海からちょっと入ったところにあるここで
 海の匂いがした
 追いつくまでもなく車は外へ

 あの車にダフネが乗っているとは限らないのに

 そのとき停まっていたもう一台の車の陰の
 一層深い暗闇の中で
 何か白いものが動いた
 猫か仔犬か

 だがそれが何かはすぐにわかった
 「そんなところで何をウロウロしているんだね」
 その小動物がそう言ったからだった
 「ハク?」
 「そりゃそうだ なんで一日に何度も名乗らなきゃいけないんだね」
 「一日?このあいだ会ったのは」
 そう言いかけて僕は黙った
 これは幻覚
 あのときもハクはそれこそ幻のように消えてしまった
 というか僕の意識が
 どこかで断層みたいにするりとズレて
 ハクのいた世界とそうでない世界を
 行ったり来たりしたみたいな感覚だった
 今も同じか
 こいつと時間の話をするのはやめなければ

 「ダフネがいない」と僕は独り言のように言う
 ハクが「ダフネ?」と溜め息まじりに聞き返す
 「ああ あの月桂樹の娘か
  居なくなってはいない
  いつも君のそばにいる定めだ
  ここしばらくは」
 「根拠もないようなことを言わないでほしい」と僕
 「仮にいないとしてもだ
  だから何だね」
 「こんな夜に」
 「まだそんなことを
  私にとっては今が昼に等しいように
  月桂樹の娘にとってもそうだろう」
 「昼だって?」
 「そう昼行性の
  おっと君らの言葉では夜行性のわれわれにとっては
  安全な時間だ
  まあぼんやりしていて
  車に轢かれたりしなければだが
  さっきももう少しで急いでいる奴に轢かれるところだった」

 僕はハクとこの種の論議をしてもしょうがないと思う
 こいつの減らず口はキリがない
 無視しようとしたのだが
 『月桂樹の娘』という言葉が気になっていた
 前にもそんなことを言っていた気がする
 「月桂樹がどうしたって?」と苛つきながら僕が言うと
 「なあ 君
  君の恋人はどうしたね
  今はウ・ィ・ロ・ー・レ・イ・ン辺りだったか
  (そう言ったときだけ時間が妙に間延びした)
  郊外にしてはいい場所だ
  手を伸ばせばすぐに届くところじゃないか
  早く子どもを作り給え
  ウサギの一生はあっと言う間だぞ
  その点では君らもウサギ同然だ
  だが
  月桂樹の娘は
  君らのようには繁殖しない
  種は女が蒔き土が新しい命を産む
  だから時間など無関係なのだ
  あの娘の子はあの娘の枝から芽を出すだろう
  だが君らは違う
  まあわれわれも違って
  忙しい季節には忙しくしなくてはならん
  『愛』とかなんとか言っている暇はない」
 
 僕はもうハクの話を真に受けている気にはならなかった
 ダフネは店内かもしれないという考えが急に事実らしく思えて
 振り返ろうとした
 「まあ 待てよ
  君らのことについては余計なことを言ったがな
  それは赦してくれ
  それはそうとして
  月桂樹の娘にとっては今が大切な時なのだ
  人間らしく生きるか
  選ばれた者としてか
  君の力に期待するところだ
  まあ強力とは言えないにしても
  非力でも力は力だからな」
 僕は傍まで行ってこの減らず口のウサギを蹴飛ばしてやりたくなり
 入り口の階段を一段

 降りた途端に元の小部屋の中に立っていた
 この間と同じだ
 と思う間もなく
 Aさんの声がした
 「どこに行ったのか探さなくていいのか
  あの子を」
 そう言われ僕はAさんとあのひとの顔を見比べた
 それから僕の中で『慌てるな』という声がし
 僕は言った
 「いえ きっとすぐに戻ってきますよ
  誰かと一緒に
  すぐに」

 そう言ったが
 それは何も根拠のないことだと
 僕が一番痛感していたと思う
 なのに僕の口は勝手に動いて
 うわ言のように僕はそう言った

 『誰かと一緒』って誰と?
 僕には全く分かっていなかった