もがく鳥 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 部屋に戻ったとき
 僕はもう半分以上奇妙な空き巣のことを忘れかけていた
 幸い盗られた物はほとんどなく
 辻褄が合わない出来事にも関わらず
 いやきっと 辻褄が合わない そのゆえに
 僕の意識から急速に抜け落ちてしまったのだ
 とてつもなく長い
 僕にとっては考えればキリの無い出来事の連続した一日の
 終わりに起きた
 不確かな
 ほとんど意味の無い珍事を考えてみる気にはなれなかった
 そういうことだったのかもしれない
 あるいはもっと重くて強い感情の後で
 普段なら不安に思うような出来事なのに
 もう僕には不安を感じるだけの力も残っていなかったのか
 部屋に戻ると僕はベッドに倒れこんだ

 ダフネは最初僕のベッドの横まで来て立ち止まったものの
 それ以上僕には近づいて来なかった
 かわりに振り返って自分のベッドまで戻り
 そこでまた立ったまま動かなくなり
 「ダフネ」と僕が声をかけると
 ぴくりと細い肩をひきつらせてから
 振り向いて二三歩近づいてまた立ち止まった
 まるで見えない壁が
 どちらのベッドの前でも道を塞いでいて
 先に進めないみたいに見えた
 その往復運動が数回繰り返され
 やがて糸の切れた操り人形みたいに
 自分のベッドの上に落ちた

 僕は起き上がって
 うつ伏せのダフネにブランケットをかけてから
 自分のベッドに戻ったが
 それきり意識が遠のき
 翌朝早く強い風が窓をたたき
 木々の間を抜けるたびに立てる音で
 目が覚めるまで眠ってしまったらしい

 空気は寒かった
 風は嵐のように鳴っていた

 ベッドにダフネはいなかった
 窓が開け放され風が吹き込んでいた
 寒いと思ったのも
 激しい風の音が急に僕の意識に飛び込んできたのも
 そのせいだった
 その窓の外にダフネの細く白い肩が見えた
 ダフネはベランダにほんの今ドアを開けて出て行ったらしかった
 ベッドのそばには服が脱ぎ散らかされたままなっていた
 いつもなら誰にしつけられたのか脱いだ服を
 ダフネはきちんとたたんでおく
 それがそのまま洗濯機に投げ込まれるときですら

 僕は急いで起き上がりベランダまで行く前に
 なぜかダフネの服を一つずつ拾い上げずにはいられなかった
 そうして手に取ったダフネの服は
 生温かく
 甘い匂いが残っていた
 
 ダフネは裸でまっすぐ突っ立ったまま海の方を見ていた
 辺りはまだ薄暗く雲も厚いのか
 海は見えない
 荒くれた風が伸びたダフネの髪を引きちぎりそうに吹きつけていた
 微かに見えるダフネの顔には表情がなく
 背中から足まで蝋人形のように白かった

 僕がやっとダフネのすぐ後ろまで近づいたとき
 ダフネはまるで鉄棒に足を掛けるように
 手すりに右足をひょいとひっかけて
 そのまま勢いをつけて
 上へ
 いや前へのめるように動いた
 それはほとんど風に煽られた紙人形のように
 生気のない動きで
 もう一秒僕が遅かったら
 風に舞い上げられて
 それから急に人である重さを思い出したように
 庭に向かって叩きつけられていたかもしれない

 すんでのところで僕の手はダフネの
 腰骨辺りに届き
 やわらかな腹と尻をつかんで抑え込んだので
 ダフネは鳥にならずに
 手すりに逆さまに引っかかった形で止まる
 無理な恰好でダフネを抑え込んだせいで
 僕は右膝を鉄の手すりにしたたかぶつけて息が止まりそうになった

 今までもダフネは自分が傷ついたり
 あるいは最悪の場合命に関わるような行為を
 まったく恐れずにすることがあったけれど
 これほどの事は初めてだった
 僕は右手でダフネを抑え込んだまま
 左手を伸ばしダフネの胸を抱え込むようにして
 上体を引き戻したが
 ダフネが急に人間に戻ったように身体をこわばらせ
 腕をすごい勢いでばたつかせたので
 ダフネの肘が僕の右目にぶちあたり
 もう少しで僕は手を離しそうになった

 後ろから羽交い締めにしたけれど
 ダフネはなおも物凄い力で振りほどこうとする
 部屋の中に連れ戻し
 暴れているダフネをベッドに叩きつけるように
 投げ出すまでどのくらいの時間がかかったか

 ベッドに投げ出されると
 ダフネは今度は釣り上げられた魚のように
 身体全体をばたつかせ
 上体と顔をベッドに叩きつけ始めたので
 僕はダフネに覆い被さって
 ベッドに押し付けて動きを封じなくてはならなかった

 何分間か僕らは奇妙な格闘を続けたが
 幸いなことにダフネの力のほうが僕より先に尽き
 びくんと痙攣したように跳ねたまま動かなくなった
 その間ずっと僕は息をしていなかったのではないかと思う
 ダフネが動かなくなったと同時に
 僕も力が抜けて
 初めて息をついた
 酸素が急激に脳まで飛び込んできたような感じがした

 「助かった」と僕は頭の中で繰り返す
 そう思った途端に
 ダフネがこんな馬鹿なことをしたのが
 なぜなのか確かめずにいられなくなって
 僕はダフネの身体を仰向けにしようと肩を引き上げた
 ダフネがどんな顔をしているのか
 覗き込もうとしたのだ
 ダフネの身体は重かったが抵抗はなかった
 
 意外なことにダフネの顔は上気して額も頬も赤く
 赤い
 赤い色
 もう一つの赤が力の抜けたダフネの身体に残っていた

 右の乳首の下
 柔らかにふくらんでいる曲線に斜めに交差するように
 真っ赤な直線が引かれていた
 引き上げたとき蔦模様の手すりの彫りで切ったのか
 傷は深くはなかったが
 赤い線の上にいくつも小さな血の滴が
 笹の葉の端の朝露のように光っていた
 けれどダフネはそれを気にする様子もなかった

 自分の指をガラスか何かで切ったときのように
 僕はほとんど反射的に傷口を口にふくんで
 血を止めようとした
 ダフネはピクリともしなかったが
 やがて右手が僕の髪の上にやってきて動かなくなった

 ダフネは蝋でできた死んだ人形ではなく
 微かに塩辛い血の流れる生き物だった
 でも
 ダフネは痛みを感じていないようだった


 ダフネ
 君の痛みは僕が探そう