月が赤く翳ったせいで崖の上へ戻る小径は暗く
僕たちはおっかなびっくり足元を確かめながら登っていった
家のすぐ下辺りまで来たとき振り返ると
浜辺は暗くほんのわずかばかり波が光るのがわかるほど
でも僕は浜辺に人影を見た
それは僕たちの影だったのかもしれない
ときどき未来を見る僕のおかしな目は
今夜は過去を十数分前の時間を見ていたのだろう
目に見えない影を網膜に
あるいは頭のどこかに焼き付けてしまったか
僕がちょっとの間立ち止まって見ているとき
二人も立ち止まって振り返り
海の方を見ていた
Mもダフネも何かを目で追いかけていた
玄関とリビングの明かりは点いたままだったが
あのひとは部屋に引き上げてしまった後だった
僕は聞きたかったのだ
あの楽器の所有者は誰だったのかを
作ったのがダフネの父親だと聞いて僕はてっきり
そのひとの残したものだと思った
でもそうならダフネがそれをもらい受けるはず
それを僕に「遺族」がくれたというなら
所有者はダフネのお父さんではなかったことになる
小さなことにも思えたが
寝る前にそのことを確かめておきたかった
でも僕たちは少しばかり時間を忘れ過ぎたらしく
時計はもう夜中の2時を過ぎていた
Mは玄関で
いやご丁寧にも玄関に入る前に
ワンピースをパタパタとはたいて砂を落とした
日中なら水はすぐに乾いて
砂は歩くうちに皆身体から滑り落ちたろう
でも夜には陽の光は無く
それに終わり近い夏はまだ暑かったので
小径を登りながら僕たちは汗ばんでいた
「まだ身体中砂だらけみたい」とM
ダフネの白の上下もまだ濡れたままで
そこら中に黒っぽい砂が付いていた
ダフネの砂を払い落とし
自分の足の砂も綺麗に落としながらMが言った
「そっと入ってこのままシャワーを浴びちゃえばいいかも
Kも一緒にね」
僕は楽器のことを考えていたせいか
生半可にそれを聞いていて「ああ」と言った
言ってから内心少しあわてたが
それほど不自然な成り行きだとは思ってもいなかった
なぜだろう
僕はダフネはともかくMを女として見ていたのに
シャワーを全開にして
僕たちはまるで子どもみたいに
シャワーの水の傘を取り合いながら
代わりばんこに身体に付いた砂を洗い落とした
なぜ男と女は愛し合うのだろう
恋の季節がそうさせるだけだとは思わない
僕はダフネとMを大切な人たちだと思う
離れられないと感じるほどに
でもそれがこうしていて
セクシャルな感情に結びつかないのを不思議に思った
Mの乳房はダフネよりずっと大人の女のものだった
けれど運動神経抜群のMの身体は
ダフネにどこか似ていて
どこか女とは遠かった
いやたぶん
この夜の僕はどうかしていたのにちがいない
Mがこのまま遠いままに
時が過ぎていくような気がする
ダフネはもう半分眠っているような目をしていた
Mがダフネの足に付いた砂を丁寧に洗い落としている間
ダフネはじっと立ったまま
されるままにしていた
僕たちの誰もが結婚などしないで
ずっとこのままこの崖の上に住み続けるような気がする
親しすぎる兄弟姉妹か何かのように
でも時間はそれを許さないだろう
ならば今夜はきっとそういうつながりを
確かめられる最後の晩になるのかもしれないと
着替えを部屋にとりに行きもせずにシャワーに飛び込んだから
僕たちは塩の匂いのする服を洗濯機にほおりこんで
裸のまま二階の部屋に上がっていく
あのひとがひょっこり顔を出したりしたら
ダフネ以外は誰もが困ったかもしれない
でもそんなことがないことはよくわかっていた
部屋に戻るとMは窓を開けて風を招じ入れた
海がまだそこに居てくれるようにと思ってでもいるように
「このまま一緒に寝てもいい?」とM
僕は黙ったまま頷いた
もしかしたらこの一ヶ月余りの時間は
もう二度と起こらないのかもしれない
だから
Mはそれからダフネの細い裸の肩を抱いて言う
「ダフネも一緒によ」
月がどうなったのか僕にはわからない
さっきと同じように赤く煙ったままなのか
それとも
あの赤い光は意味もなく消えて
今は煌煌と明るい月の光が
波を光らせているのだろうか
庭灯の光がぼんやりと窓から入ってきて
言ったような気がした
「今夜で夏は終わるよ」と
その夜
僕たちは折り重なるように眠った
確かめたのはお互いの身体の熱ではなかった
それよりももっと確かなものを
おそらくはダフネも含めて
僕たちは確かめておきたかったのだ
この奇妙な日々がほんとうに起きたことであり
なおも続いていくのだということを
僕たちがみな
何かを求めて息をつないでいくだろうということを
それがこの崖の上の家でなのか
それとも場所は転々と変わっていくとしても
またどこか違う
僕たちに与えられた場所で
あるいは誰かに与えられるのではなく
僕たち自身が見つけだし手に入れた場所で
眠りに落ちる前に僕たちは
暗がりの中で
それぞれの目の奥をじっと眺めた
皆がお互いに「何?」と聞きあって
それから声に出さずにアリガトウと言ったと思う
生き物が寄り添って眠るのはなぜだろう
海の中でイルカたちも寄り添って眠るのだろうか
ベッドの上には海が広がっていた
何時間か
ふっとMの身体が遠のくのを僕は感じた
暗がりでMが上半身を起こしたのだと思う
寝返りでも打つのだろうと僕は思ったが
陽が昇り始める頃に目を覚ますと
Mは部屋にはいなかった
ダフネが僕に抱きついて眠っていた
愛らしい寝顔だった
ジーンズだけはいて一階に降りると
Mはもう出て行った後だった
あのひとの車がなかった
Mは運転はしない
あのひとがMを送っていったのだ
朝早くあのひとはどうやって
Mが帰るのに気づいたのだろう
Mよりも早く起き出して一階にいたのだろうか
何のために
僕は玄関の外で
朝風に肌寒さを感じながら
これからどうしたらいいのかを考えようと努力していた
でも何も思いつかないまま
立っているのがせいいっぱいで
考えらしい考えなんてどこにもありはしなかった