小舟の中に | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 3日前の晩の留守番電話が
 誰からであり何を伝言していったのか
 わからないままに平然と時間が過ぎた

 朝まだ日が昇らないうちからダフネが目を覚まし
 部屋の窓をすべて開けて
 少し湿気た六月の風を呼び込んだ
 いつものキキーと鳴く鳥が白みかけの空の足元で騒ぎ出す
 鳴き方からするといつもとは違って数羽の群れがいるようだった
 かまびすしく遠く近く鳴いている

 この朝に
 ダフネの『バルコ』がほんとうに僕たちの前に現れたのだ

 落ち着かないダフネが階段を降りたり昇ったりし
 かと思えばMや僕のベッドに飛び乗ってきたりしたので
 ダフネを浜に散歩に連れていかなければならなくなった

 ときどき梅雨空めいた空から霧のような雨が落ちてきた
 でも傘をさすほどのことはなく
 僕たちは顔を濡らしながら小径を下った
 小さな黒っぽい塊が波間を漂っているのが見えた
 ダフネの目の色のような青みがかった灰色の海を
 その塊は徐々に浜に近づきつつあった
 僕たちは皆すぐそれに気づいたが
 何か大きな枯葉のような物に見えただけで
 それが何であるかはよく分からない

 僕たちが小雨に濡れた砂浜を歩き始めた頃
 その塊は静かに浜に乗り上げる
 黒と見えたのは黒ずんだ褐色
 古びた木造船が波と雨に濡れていたのだ
 僕たちは誰ともなく走り始め
 そのボートくらいの大きさしかない
 日本古来の舟に走り寄る
 ダフネが確信に満ちたように「バルコ」と叫んだ

 長い間漂流していたのか
 舟はところどころ風化して崩れ木の繊維が露わになっていた
 もし漂流していたのでないのなら
 それは随分と長い間どこかに置き忘れられていたものが
 何かのきっかけで海に流れ出したのだろう

 その中を
 覗き込んだ僕たちが見つけたのは
 まだ死んで間もなさそうな白い仔犬だった
 ずんぐりと太い足
 きっと大型種の子どもだろう
 まるでモーゼの子どものようだと僕は思う
 でもそうなら何で死んで浜に戻るのか

 仔犬は
 舟の底に横に倒れたまま動かなくなっていた
 揃えられでもしたように
 前足の二本も後ろ足もまっすぐ伸びたまま
 鼻は乾いて
 僕とMは顔を見合わせた
 Mの顔は悲しい出来事に表情を失っていた
 ダフネはじっと仔犬の姿を見ていたが
 動かない姿に諦めたのか
 振り向いて舟から離れていった
 「埋めてやろう」と僕が言ったとき
 視野の端から白いものがふわりと
 小舟に跳び乗る
 ダフネだった
 数歩離れたところから弾みをつけて

 波打ち際の小舟がダフネの重みでぐらりと揺れ
 硬直した仔犬はまるで玩具の犬のように
 船底を横滑りに転がった
 僕は思わずダフネに「止めなさい」と叫ぶ
 犬だとは言え死んだ者をいたわる子であってほしいと思った

 ダフネは僕の声など聞こえなかったように
 小舟の上でしゃがみ込み仔犬の鼻先に顔を近づけた
 そのダフネの鼻先で
 仔犬の右前足がピクリと動いた気がした
 Mがさっと手を伸ばし仔犬に触る
 「死んでない!」とM
 この哀れな漂流者は飢えと渇きで力尽きていたのだ
 塩水を飲んで諦めたのか
 乾いた鼻の周囲に塩の結晶らしいものが白く着いていた

 僕はほとんど反射的に今降りてきたばかりの小径を駆け上がる
 慌てて走り過ぎ息が切れたが
 家に飛び込み冷蔵庫にあった牛乳パックを持って
 また小径を駆け降りた
 生きているなら
 あれはモーゼの子どもでなくてはならないと思いながら

 仔犬はすぐには口に注ぎ込まれた牛乳に反応しなかった
 「駄目かしら」とMが言う
 ダフネが手を伸ばして仔犬の身体を小さく揺さぶったとき
 口がわずかに動いて
 喉の奥でゴボッという音がした
 牛乳をまた注ぐと今度は確かに飲むように
 顎と舌が動いた
 
 仔犬の回復には時間がかかった
 横たわったままでは牛乳はなかなか上手く飲み込めず
 それでも誰かが何かを与えてくれると気づいたのか
 やがてピクピクと身体を痙攣させながら
 干からびかけた身体を必死に起こし
 伏せの姿勢になって頭を舟の底にぶつけるようにうずくまる

 舟の周りで見つけたのかMが持ってきた
 大きな貝殻を仔犬の鼻先において牛乳を注ぐと
 仔犬がわずかに目を開けて
 舌が目の前の白い液体をするりと舐める
 そうやってほんの少しずつ
 命綱は延ばされて
 仔犬はこの世に繋ぎ止められた

 まだ立つことのできない仔犬をダフネが抱いて
 小径を登り
 リビングの床に敷いたタオルの上に横たえるまで
 二時間以上も僕たちは浜にいて
 漂流者が生き返るのを待ったのだ

 昼近く仔犬が首をまっすぐに上げるのを見て
 ダフネが「モーゼ?」と語尾を上げて聞く
 そうだとも そうにちがいないと僕は思う
 ダフネはモーゼの亡骸を見ていなかったから
 今でもモーゼがどこかにいると思っていたのだろうか
 ダフネが顔を近づけると
 モーゼ二世がダフネの小さな鼻をペロリと舐めた

 でもこの愛らしい
 みなしご同盟の新しいメンバーは
 その愛らしさゆえに僕たちに思いもかけない問題を
 投げかけることになったのだ