夜になった
六月上旬のもうほとんど満月に近い朧月夜
今夜もまた静かな夜だ
ダフネは走り回ったせいか
それともピース並べに集中しすぎたのか
身じろぎ一つせずに丸くなって眠っている
僕の方を向いて眠っているので
静かな寝顔が見えた
寝顔だけ見れば幸せそうな女の子
いやこうして毎日が過ぎていくなら
本当にダフネは幸せなのかもしれない
いつ落ちて来るか分からない爆弾や
冷たい風の吹き込む難民キャンプなら
つかの間の眠りすら幸せとはほど遠い
でもダフネは違う
平和な国に生まれて平和な国にいる
だからこのままでいてもいい
そんな気がする
Mはさっきから何度か寝返りをうって
多分まだ眠れないでいるらしい
僕は急に聞いてみたくなって聞く
「ねぇ」
「何?」とすぐにM
「Mは子どもが欲しいと思ったことある?」
答が返ってこないので
「眠ってる?」と僕
「ううん ちょっと考えてた
わからないわ」
「なぜ?」
「『ない』ことに理由なんてないわよ」
「じゃあ『ある』としたら理由は?」
「そんな仮定しない」
「そう」
「なんで?」
「とくに理由はないよ」
「そう それなのに私には『なぜ』?」
「いや ダフネもMも女の子だから
女にはそういう感覚があるのかなって」
「男だって子どもが欲しいっていう人いるわ」
「そうだけど」
「Kは?」
「さあ」
「何なのよ それ
私ね 一人っ子でしょ
Kもだったわね
ダフネも一人っ子?」
「たぶん」
「じゃあ三人ともか
おじさまは?」
「姪が居るって言ってたから」
「そうなの」
「一人っ子だから?」
「だから兄貴か妹は欲しいなと思ったことはある
Kは?」
「ないな」
「なぜ?」
「さあ」
「ま いいけどね ダフネが居ると
妹ができたのかなって思えば嬉しくはある」
「『嬉しくは』?」
「うん でもダフネは私と血のつながりなんかないし
もっと違う関係なのかも」
「そう」
「そうよ
ねぇ そっちに行っていい?」とM
「いいよ」と僕
Mが僕のベッドにもぐりこんで
横を向いたままの僕の前に仰向けに寝る
Mはダフネのように甘い匂いはしない
でも強いて言えば
日溜まりの干し草のような匂い
嫌いな匂いじゃないなと思う
「結婚なんて制度がなければ」とM
「なければ?」
「子どもができると幸せなのかも」
「なぜ?」
「また?
とくに理由は考えたことないな
前にも言ったかもしれないけど
オヤジと母が距離を置くようになったからじゃない
なんだか結婚とかと子どもとは別のことであってほしい」
「そう」
「そうよ」
僕は質問が底をついたと思い黙る
Mがふぅーと息をするのが聞こえる
パジャマの下でMの胸が動いたのがわかった
その息の音とはまったく違う音がどこかで聞こえた
人声のような
少しくぐもった
ダフネの方を見たがダフネは眠っている
「何?」とM
「聞こえた?」と僕
「うん」
それから今度は
プツンとテレビでも消したときのような音
あのひとの部屋の方からだった
確かめなくてはいけない気がして起き上がる
Mも僕の肩に手をかけて起き上がった
廊下に出て聞き耳を立てるが
しんと静かだ
「見てこよう」と僕は歩いていって
あのひとの部屋のドアを開ける
トルコキキョウを持っていったとき
僕たちは初めてあのひとの部屋を見た
本が整然と並んだ本棚
大きな濃い褐色の机の上にガラスのペン皿と
模様のない何段か棚のある30センチほどの高さの書類ケース
栞が挟まれた本が二冊
壁には幾つか額に入った賞状のような紙
廊下側の壁には大きな海の絵が掛けられていた
岸辺のない波がうねるだけの
留守にしているせいなのか塵ひとつない綺麗な部屋だった
部屋の隅の台の上でファックス電話のLEDが点滅していた
「留守電だ」と僕
明かりを点けてよく見ると
呼び出し音のボリュームは絞ってあった
だから電話が鳴った音がしないのだ
スピーカのボリュームは絞ってないので
誰かが電話して録音しているときに声が聞こえたのだろう
再生してみた方がいいのか少し考えて止める
これはあのひとへの伝言だからと
聞きたかったが
僕たちが聞くべき内容でない可能性のほうが遥かに高いはずだと思う
明かりを消して部屋を出たところで息を呑んだ
暗い廊下に
眠そうな目を擦りながらダフネが立っていたからだ
「ダフネ 目が覚めちゃったの?」とM
ダフネは何も言わない
部屋に戻ると窓の外に月
ダフネがぽつりと「バルコ」と言った
「バルコ?」とM
「『舟』じゃないかな」と僕
「夢でもみたのね」とM
「きっとそうだ」
そう言いながら僕はファントムシッポの夜を思い出し
なぜ今夜はシッポではないのだろうかと
それから
頭の中に辞書のページをめくるイメージが浮かんできて
『もしかしたら』と思う
「みんな Oで終わってる」と僕
「何?」
「待てよ これって」と僕
本当にそんなことがあるだろうか
あるとしても全然理由がわからなかった