星の夜 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 けっきょく僕たちは
 あのひとが風のように出て行ってしまった日蝕の日を
 ほとんど寝て過ごした
 Mには予定がなかったし
 ダフネにはバレを休ませた

 ずっと眠っていたわけではなかったが
 起き出す気になれず
 ダフネのために赤飯を炊くこともしなかった
 そのための材料が崖の上の家にはなかった
 だいたいこれが祝うべきことなのかどうか
 僕にはわからなかった

 ただ下旬に入った五月の風を楽しみ
 ダフネの苦痛をお互いの温もりで包もうとした
 ダフネはMの方を向いたり
 僕の方を向いたりしながら
 自分の身体の変化に耐えていた

 うとうとしていた僕の腕に誰かが触り
 それからMの声がした
 「これどうしたの ひどい傷」
 モーゼの残した刻印は生々しさはなくなっていたけれど
 まだ鮮やかに残っていた
 一部は見えないほどになり
 三本だけが縦長の「川」の字になっていた
 「モーゼが
  僕が小さいときから知っていた犬が
  ダフネと一緒にいたときに
  僕に襲いかかって付けたんだ」
 「凶暴な犬だったの?」
 「いや全然 でもあのときは あのときだけだ」
 「何があったの?」
 「わからない」
 「そればっかりね
  でもここにきたら分からないことばかりかも」
 僕の長い友人だったモーゼ
 なぜだったのか

 思い出して
 寝ているダフネの腕を持ち上げて見た
 微かになっていはいたけれど
 どこで付けてきたのかわからない
 モーゼの刻印そっくりのひっかき傷がまだあった


 夕暮れ近く
 Mが「何か作る?」と聞いた
 「あまり食欲はないけど
  ダフネは食べた方がいいんじゃないかな」
 「そうね」
 Mが作ったのはサラダと簡単なスープ
 ダフネは特に食欲がないふうでもなく
 むしろ昼抜きだったのでよく食べた
 僕の方が胸がつかえて食べられなかった
 この家に居てあのひとがいないことが奇妙に思える
 長い間あのひとが一人で維持してきた家だった

 新月の夜
 庭に出てみると朝方の雲は消え
 空は星の洪水

 僕たちは芝に寝転がって空を見た
 「星がなかったらどんな感じがするかしら」とM
 「そんなこと有りっこないよ 曇り空は別にして」と僕
 「考えてみなよ
  空は僕らの上に広がっているだけじゃない
  この地面のあちら側にも空がある
  地球は宙に浮かんでいて
  恒星はそれこそ無数にあるんだ
  星がなかったらという仮定は
  宇宙も地球もなかったらということになる」
 「そうよね なら何もないってことね」
 「そういうことになる」
 「ゼロ」
 「そう」
 「ゼロは『在るもの』じゃないのかな」
 「何言ってるんだ
  キャンプの夜じゃあるまいし」
 「でも私にはキャンプみたいに思える
  曇りでも何でも夜に星がなかったら
  航海もできない」
 「それは昔むかしのことだろ
  霧笛すら今はもう使われないんだ
  星は要らない」
 「私は欲しいわ ひとつでも」
 「まあね」と僕
 わからないでもない気がした

 「私ね ダフネのこと好きになりそう」
 「それはよかった」
 「よくはないかも」
 「なぜ」
 「Kよりも好きになりそうだから」
 「それでもいいよ」と僕
 「私なんかどうでもいい?」
 「そうじゃないよ」
 そう言ったけれど僕は少し動揺していた
 それはMとダフネの距離が
 僕の想像もしなかったような速さで
 縮まっていくような気がしたからだ
 
 「なんだかとっても変な気分だな」とM
 「何が」
 「Kと何日か二人だけで過ごせると思って
  ワクワクしてたのに
  そうじゃなかったのに」
 「なかったのに?」
 「なのに今とってもワクワクする」
 「それはよかった」
 「そうね でももしかしたら
  よくはないのかも」
 「なぜ?」
 「何にワクワクしてるか分からなくなったから」
 それも分かるような気がした
 人間が自分の感情を理解するなんてあるわけがないと
 理解できずにいるからこそ
 人は感情の中に
 感情とともに居られる

 「ねぇ私たち ダフネにキスしちゃったじゃない」とM
 またそんな話
 「思ったんだけど ダフネは私たちのキスみたいな存在?」
 それは少し意外な発想に聞こえた
 「どういうことだろう」と僕
 「ううん なんでもない ただそんな気がした」
 それはなんだか僕の胸の中に
 ものすごく熱いものを膨らませる言葉だった
 
 「ははは ロマンチックー」とM
 「ここって不思議な場所だわ」
 「僕もずっとそう思ってる」
 「Kも?」
 「うん」
 「おじさまってきっとロマンチストね
  こんな辺鄙な場所に一人で住んでるなんて」
 「最初は一人じゃなかった」
 「そうか」
 「でも長いこと そのままここに居たんだから
  それなりロマンチストなのかも」

 そのときダフネが僕たちの間で
 「ステロ」と言った
 「え?」とM
 僕は心臓が拍動するのを感じる
 「きっと 『星』だ」
 ダフネが自分から言った数少ない言葉のリストに
 新しい語が今ひとつ加えられたのだ

 「ダフネって不思議だな
  こんな子いままで見たことないわ」
 「そうだね それがいいかどうかはわからないけど
  能力も並外れたものがあるかもしれない」
 「そうなの?」
 「そのうちわかる」
 「能力はどうかわからないけど
  ダフネって普通の子どもじゃないと思う」
 「いや だからそれは」
 「そういう意味じゃないの
  病気だか何だかじゃなくて
  私たちのずっと遠くまで行きそうな」
 
 自分の名前を何度か聞いたせいか
 ダフネがまた「ダフネ ステロ ダフネ」と言った
 一つ目の『ダフネ』と二つ目の『ダフネ』は
 どういうつながりがあるのだろうと僕は考える
 ダフネは星が好きだという意味なのだろうか
 それともただここには
 ダフネと満天の星ともうひとりのダフネがいるということなのか
 「ダフネって名詞ばっかり」とMが言う
 「そうだな」と答えてから僕はまた考える
 もしかしたら『ステロ』は動詞で
 『ダフネはダフネにステロする』なのかもしれない
 「『ダフネはダフネに星をする』か」と僕
 「『星をする』?」
 そうMが聞いたときダフネは起き上がって
 幼稚園の子どもたちの遊技みたいに
 手をキラキラと動かし始めた
 
 ほんとうにダフネの手が星のように空に浮かんで見える
 「きっとこれが『星をする』だ」と僕
 「わかるわ それ」とM

 ダフネが両手の星を高く上げて
 「ダフネ ステロ M
  ダフネ ステロ K」と言った