川の字に | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 ダフネは倒れるというより
 糸の切れた操り人形みたいに地面に滑り落ちたので
 怪我はしなかった
 それに気を失ったのはほんの数十秒
 Mが「ダフネ」と金切り声を上げたのとは対照的に
 朝目を覚ましたときみたいに目を開けて
 何が起きたのかわからないというように
 Mと僕を交互に見た

 「大丈夫かな」と僕
 「平気平気」とさっき叫んだばかりのMが言う
 「自分で気をつけてれば何とかなるけど
  最初は分からないものなのよね」
 そういうものかと僕は思う他はない
 他に理由があるとしたら
 それはあのひとが出かけたこと以外にはないだろう
 でもそれは気を失うほどの緊張を
 ダフネにもたらすようなことだったろうか
 ダフネは何のために泣いたのだろう


 家に入って最初に僕のしたことは
 あのひとのメモを読むことだった
 電話の傍のメモにはたった二行しか書いてなかった
 東京の電話番号と
 「急ぎ連絡の必要のあるときはここへ」だけだった
 すぐにも電話してみようかと一瞬思ったが
 すぐに考え直す
 短い一行がそんなことをするなと言っていた
 その間にMはダフネをソファに座らせる
 どちらのことも
 放心したようなダフネに説明して分からせるのは難しそうだ

 「これからどうする?」とMに聞いてみる
 Mは笑って
 「それはどういうタイム・スパンの質問でしょうか」と聞き返す
 「タイム・スパン?」
 「だって『これから』って今日の午前中何をするかっていうこと
 それともおじさまのいない一週間
 あるいは一年?」
 「おじさまだって? いつから『おじさま』になったんだ」
 「昨日の夜よ お風呂に降りてきたら
  二階に上がってくるところだった
  何て呼んでいいか困って
  『先生』って言ったら『堪忍して欲しい』って」
 「それで『おじさま』?」
 「そう そう言い直したら『それでいい』って
  『どうする?』って聞きたいのは私の方だけどね
  どうやらKちゃんはすっかり狼狽えているようですし」
 と皮肉っぽい顔でまた笑う
 「どんなことにもタイム・スパンというものがあるわ
  Kちゃんはときどき時間なんか忘れているみたいだけど」

 タイム・スパン
 確かにそうだった
 僕はここしばらくダフネの一日
 あるいは一週間しか考えていなかった気がする
 Mについても何と言おうかというようなことばかり
 「そうだな」と僕
 「ねぇ ダフネも似たところあるわ
  時間の外に
  ううん 時間だけじゃない
  スパンのないところに居るみたいな感じがする
  話の
  話じゃないわね何ていうか
  何に関心を持っているのか
  thisなのか these なのか
  thatなのか those なのか
  私のことなのか私たちなのか」
 僕はまたMに驚いている自分に気づく
 それは僕がダフネのいろいろな行為について
 ずっと言葉にできないまま迷いつづけていたことを
 見事に言い当てていると思った

 「でも女になったら時間を忘れていることなんてできなくなる」
 『女になった』という言葉に僕は少し狼狽える
 ダフネを僕は大切に思っているけれど
 そしてどこかでダフネを手放したくないという
 恋心みたいなものがあるのも認めるが
 「女」という言葉は何か全然違う話に思えた
 それを見越したようにMが言ってまた笑う
 「だからKはタイム・スパンを考えていない」
  
 僕は反論しなかった
 いや正直に言うならできなかったのだと思う
 きっと僕は死ぬ直前になるまで
 そんなふうには考えないような気がする
 いや死ぬことになっても考えずにいるだろう
 死ぬのならもうそんなタイム・スパンをあれこれ考える意味はないだろうと
 そのときには「今」だけが大切になっていて

 「なんだかあのひとみたいな言い方だな」と僕は苦笑いする
 「それじゃあ 今日これからどうしようか」と聞くと
 Mが僕をじっと見て「寝ましょうか」と
 「え 寝るってそれ」と僕
 「だって家の主は不在
  ダフネは朦朧状態
  私たちは久しぶりだし」
 そう言って笑い声をたてて笑う
 言葉に詰まった僕の横でダフネが生ま欠伸をした
 「ほらダフネも眠いのよ
  上に行って三人仲良く
  私まだ時差ぼけが続いてるみたいで今頃眠くなってきた」
 冗談みたいなものだと思ってはいるのに
 Mのこういう冗談はどこまで冗談なのか
 いつも分からない
 「じゃあ一休みしようか
  何がなんだか分からなくなってきたし」と僕
 
 ダフネがMの手を離そうとしないので
 「じゃあ こうしましょう」とMはダフネのベッドを
 自分の使っているベッドに押し付ける
 ダフネの
 昔僕が使っていたベッドは他の二つより少し小さく
 簡易ベッドに近かった
 僕がまだ小さかった頃
 母がやったのと同じことを今Mがダフネのためにする
 わずかにできた段差にはまり込むように寝たものだ
 「川の字 川の字」とMが楽しそうに言って
 ダフネの向こう側に寝転がる
 僕もMのベッドに横になって二人の方を向いて
 Mに向き合っていたダフネの肩に腕を回すと
 Mがその腕に自分の手を置いた

 川の字か
 古い言い方だなと思う
 でもそうやって過ごした日々がある
 今の三人とは違う組み合わせだったが
 これは今の出来事だった
 同じように温かい

 「ねぇさっき本気だと思った?」とM
 「さあ」と僕
 二人の間でダフネが寝息を立て始めた
 五月ももうすぐ終わるのか